果ては枝垂れる紅に因りて

満に咲く薄紅色に微睡みて、夢にも映るうれし涙よ。


『浜路ちゃんへ
 こうやって文を出すのは四回目だね、お元気ですか。江戸は桜が散り始め、厚いお布団がいらない季節になってきましたけれど、浜路ちゃんの住むそちらは、冬には雪が積もる、寒いところで、季節の訪れが遅いと聞いています。
 まだそちらでは、肌寒い季節が続いているのでしょうか?風邪などはひいていませんか?
 大事を前に、身体を壊すなんて真似、浜路ちゃんならしないのでしょうけれど。
 
 江戸に珍しく綿雪が降ったあの夜、浜路ちゃんが江戸の町からいなくなって、まだ半年しか経っていない。
 その事実はいつも、私を驚かせます。
 たった半年なのに、もう五年も十年も会っていないような気がするの。
 こうやって、文を交わすことで、浜路ちゃんとの距離を余計に感じます。
 私、そのことが、ちょっと悲しくなってしまいます。
 
 この前、浜路ちゃんたちが送ってくれた文の内容には、とても驚かされました。
 私だけではありません。道節さんも、船虫さんも、河原長屋のみなさんも、深川一座の方々も、百花商店の店主さんも、みんな、みんな。
 だって、そうでしょう?
 浜路ちゃんと、信乃ちゃんが、祝言を挙げるというのだから。
 できることなら行きたいし、最後に会った時よりもずっと綺麗になった、花嫁姿の浜路ちゃんをこの目で見たい。信乃さんにもちゃんと会って、話をしてみたい。
 だけど、この距離では、それは叶いません。
 江戸との村との遠い距離が恨めしく思います。
 それに付け加えて、私、たぶんね、信乃さんにすごく嫉妬していると思うの。
 だって、だって。
 とても綺麗になった、みんな大好きな浜路ちゃんを、江戸の町からさらっていってしまうんですもの。
 だけど、信乃さんと一緒になることで、浜路ちゃんがいつも笑っていられるのならば、その笑顔に免じて、私は信乃さんを許せるかもしれません。
 だから、浜路ちゃん、笑っていてください。私からのお願いです。

 できることならば、とびっきり綺麗な浜路ちゃんの絵姿だけでも見てみたいと思います。
 お身体にはくれぐれもお気をつけください。
 この前狩りに出て、打ち身なんかして帰ってきたと聞いたときには、本当にびっくりしてひっくり返ってしまいました。
 信乃さんに助けてもらったから、大丈夫だったとの
ことですが、今後はくれぐれもお気をつけください。
 信乃さんのためにも、浜路ちゃん自身のためにも。
 それでは、今日はここらへんでおしまい。
 お返事、楽しみにしています。

 追伸
 以前に話していた読本のお話です、本当はまだ話しちゃいけないんだけど、嬉しいから浜路ちゃんだけに話しちゃうね。
 出版までの具体的な日取りが決まりました。
 浜路ちゃんも巻き込んで、あれだけ悩んでいた題もようやく決まりました。
 初めて世に出る、私の読本の題名は――』

 贋作・里見八犬伝。
 大政奉還が成される前、日ノ本の国に巻かれた鎖が異人の白い手で剥がされそうになっていた頃。
 御所におわす御上が東の京(みやこ)に移り住まれた頃。
 東の京、つまり東京が、ハイカラな色に塗り染まる前。
 水都にしかと根ざし、間近で見上げてもその目に全貌を納められないほど高々とした佇まいをしていて、揺るぐ事なき栄華の髄を手中にしていた徳川の将軍がそのてっぺんに鎮座していた頃。
 かの高名な読本作者、滝沢馬琴が孫娘で、これまた著名な戯作者、滝沢冥土の処女作である。
 彼女はこれから、数多くの作品をこの世に、そして後の世に送り出すが、この読本より多くご贔屓様を得たものはなかった。
 彼女の作品は多く歌舞伎や舞台といったものの原作・原案となったが、徳川の世が過ぎ去り、文明開化というものが成って、また硝煙や肉焼き焦げる苦悶の時代が過ぎたのち、百五十余年ほども経ってから、銀幕なるものに映し出されもしたというのが、この作品であるから、その気うけの良さは計り知れまい。
 もっとも、その名の通り『里見八犬伝』――偉大なる祖父が生涯を掛けて書き上げた、この国の文学史に堂々とその名を刻む大長編――の擬い物(まがいもの)であるその読み本ばかりが、冥土という語り手以上に名を広めていった皮肉に、彼女は晩年まで苦笑していたものだった。
 陽光に照らされれば白銀色にも煌めく毛並みを持つ、麗しい雄の伏、信乃と、担いだ鉄砲から放たれる鉛玉と同じく、ただひたすらまっすぐに自らの道を走り、貫いた女の猟師、浜路。
 性も、立場も、種族さえ違えた二人は、いつか決定的に異なる場所に立って、どちらかはいなくなる、はずだった。
 定めか、縁か、偶然か。
 出会ってしまった二つの糸が、切れることなく寄り合い、物語を織りあげる。
 見た目は全く違うのに、どこかしら似ている部分があるような、そんな二つが描き出すのはあの紅い大橋。
 その橋は、二つが因り合い、果てる場所のように、『贋作・里見八剣伝』では描かれていた。
 ――実際は、事実の二人は、異なる。
 『因』はともかくとして、『果』は別のところにある。
 だけれども、敢えてここで閉じられた物語。
 その先にあるものを、作者たる冥土と、その周辺のごく限られた人々だけは知っていた――。



 目の細かな磨研紙を当てられた、上等な大理石を想起させる、首から肩先までのやたらと白い線。
 動きの妨げにすらなる、余分で硬いだけの筋はない。
 指を押し込めば跳ね返ってくる、程良い弾力のある筋肉が薄く乗っている。
 大男よりも、時には下手に腕っ節を自慢してくる恰幅のいい女よりもほっそりとしているかの人の体躯。
 だけど、人っ子よりも太い丸太を易々と担ぎ、屋根から屋根へ、稲穂の海に隠れ住む飛蝗(ばった)のように軽々と飛び回る、誰よりも身軽で誰よりも強靱な力を宿したその身体も、今日ばかりは疲弊の色を吸い上げている。

(仕方ないか。悪くはない疲れだし)

 決して広くはない両肩にのし掛かり、そこから全身へ、ゆるゆると、そしてじんわりと、広がっていく疲労感。
 乾いた和紙が水を吸って、重みと潤いを得ていくかのような、それ。
 信乃はそれを厭とは感じていなかった。
 むしろ、心地よくすらある。
 理由は単純かつ明確だ。

「信乃、脱いだままでいないで、皺になるでしょ」

 洗って返すとはいえ、仕立てよく、見栄えもいいとびきりの裃の一式が、路傍に放られる木の葉のように乱雑に散らばり置かれている。
 その中心に座する信乃は、背骨や腰を丸め、胡座をかいた体勢で、頭だけは垂れずに、天井の上にあるであろう紫紺の空を仰いでいる。
 小さな棘が見え隠れする語調の浜路の声を横から受けて、信乃はいかにも気だるげな所作で彼女の方へと振り向く。畳に接する尻を軸にし回転するだけのその動作は、怠け者そのものである。
 浜路は、暮れはじめたばかりの夕日に似た、明るい橙の色と黒で格子模様が描かれた小袖を身につけ、盆を持ちながら立ち佇み、情けない醜態を堂々と晒す信乃を見下ろしている。
 木製の盆の上には、いつぞやかに買った大小の茶碗と陶製の急須が乗せられていた。
 茶を汲んできたらしい。

「滅茶苦茶にうるさい宴のあとで、よくそんなに動けるなあ。
 息つく暇もなかったじゃねえか
 ましてや、お前さん、随分と重そうな服を着てたろう」
「私は今の信乃にびっくりしてるよ」
「なんでだ?」
「そんなに疲れている信乃を見るのは、初めてだもの」
「……お前は俺を何だと思っているんだ」

 浜路の言葉に、信乃はこれ見よがしに大きなため息をついた。
 確かに、『人』よりは腕力や脚力といったものがあるし、体力勝負にも強い自覚が信乃にはある。
 しかし、疲れ知らずという訳ではない。
 ましてや、無数の老若男女が集い、騒ぐだけ騒ぐめでたき祝宴は、体力も削られるがそれ以上に気力も削られる。
 精神(こころ)というものまで、『人』より強くあるはずがない。
 むしろ、『伏』なるものは、精神こそ人より脆弱なのではないだろうか。
 珍しくつんとした表情を見せながら目の前に立ち、自身を見下ろす浜路と目線を合わせ、信乃は思う。
 小さな破裂音が経の輪唱のように連なり途切れず鳴り続く囲炉裏、熱気に当てられ宙で踊り狂う煤の子たち、地も焼く炎天の日の陽炎のように視界は揺らめいている。
 いずれも確かではないもの。瞬きの間に消えてもおかしくはないものども。
 それらは、伏なる種の者たち、そしてかつての信乃自身に似ていた。
 
「野でも山でも一晩中ひょいひょい走っていったでしょ」
「お前を背負ってな。あれでもちっとは堪えたんだぜ」

 場合によっては(いや、よらなくても)、非礼極まりないことを無意識に口走り、信乃は自らの失言に口元を押さえたが、浜路はさっぱり気にせずに、言葉を続けた。

「あんなにいっぱいの人に見られている舞台でも、涼しい顔していたじゃない。
 全然気ぃ張ってなかったし、あんなことするし」
「ああ、ありゃ慣れだ。慣れりゃあなんてことねえよ」

 『あんなこと』とは、最後に立った愛宕山の深川一座での芝居の際に、化粧をし女形として着飾った信乃が浜路に話しかけたことを指すのだろう。
 稀に良家の子女なんぞが、教養だの何だのというお題目を引っ提げて、檜舞台に立ちたがる。そういった奇異な面々は、慣れてもいないし真剣でもないから(他に食い扶持があるのだから当然だが)、幕が上がり、黒い頭が鮨詰めの客席を目にして背筋に冷たいものが走り、舞台の灯りを幾重にも反射する何対もの眼からの目線を受け、心臓を大げさに震わす。
 役者を生業としていた信乃にはそんなの慣れっこだった。
 新しい演目の初披露などの時は、少しばかり気負うこともあったが、それすらもバネにして演じきるのが役者というものである。気疲れなどしない。

「……さすがの信乃でも、祝言って舞台では、疲れちゃうんだね」
「………………悪いか」

 雀か山鳩かの嘴のように、鋭角を描いて前方に突き出ていた浜路の唇が、一転、意地の悪い笑みに変化する。
 そうだ、そうなのだ。
 珍しく信乃がその身に疲労感を抱えていること、それを悪くはないと感じていることの理由。
 それは、今日という佳き日に、二人が祝言を挙げたから。
 夫婦(めおと)という、新たな繋がりを築いたからである。


 白粉のような名残雪が山肌から溶け落ちてからひと月。
 岩の間から流れ出る清水の嵩が増えてきた頃だ。
 木々が薄い水色の空に向かい、いくつもの枝を伸ばしていた。お天道様に焦がれる子どものように。
 木の枝を腕にたとえるならば、木の葉は手にもたとえることができるだろうか。
 芽生えたばかりの手をいっぱいに開いて、木々は、そして山は焦げ茶の色から若緑に様相を変えつつあった。
 萌えたばかりの初々しい、乙女のような山肌を彩るのは、薄紅色の山桜。
 そして、ほんの少しだけ深みを増して、若竹色に染まり、なおも色濃く変わりゆく山に、真朱の頬紅を落とすのが、枝垂桜である。

 東から西へ、雲が細長く引き延ばされてはいるが、早朝からよく晴れていた。
 雨を降らす薄墨の雲など、どこにも見あたらない。
 まことめでたき祝宴を開く日である。
 いわゆる『門出の日』なのである。
 真に、僥倖なことであった。


 師走の頃から皐月の始めまでの間、互いに一つの屋根の下で、何事もあうんの呼吸で、仲睦まじく助け合い、夫婦同然に過ごしてきた信乃と浜路の二人であるが、祝言の準備となると、やはり事情が異なる。
 男が女の仕度の手伝いをしてはないけない。
 無論、その逆も然り。
 長年、愛宕山の女形の頂に立ちて、朧な世の佳人として艶美に立ち振る舞ってきた信乃である。
 上等な和服の着付け方や扱い方など、息をするように当然に知っている。
 白無垢の着付けを手伝ってやろうか?
 式が近づくある日の晩、他愛ない話をするように信乃の口から流れ出たこの言葉に、浜路は頬という頬を紅潮させた。
 全ては、自らよりは着物に手慣れていないだろう浜路のためだと信乃は主張したが、下心というものが一片も含まれていないかと問われれば、返答に困る。
 信乃の生白い頬に大きな紅葉が咲いて、子どもたちを中心に村の人々を笑わせたことは記憶に新しい。
 そのような悶着が事態を左右させたかどうか、それは神のみぞ知るところではあるが、比翼の鳥とか連理の枝など、随分高尚なものにまで例えられるほど仲の良い二人も、祝言の身支度ばかりは別々に行うことになったのであった。

 陽気と湿気に身を解された柔らかい土から、風にそのまましなう若木の枝の先から、萌黄色の若芽が伸びている。
 自らともう一人が主役を張る、一生に一度の大舞台の準備に奔走し、忙殺されている間に、山桜の季節は過ぎてしまった。
 信乃自身は、今年ばかりは見逃しても構わない、見逃しても良かったと、およそ風流ではないことを思っていた。
 華のお江戸のいたるところに、京の都の帝がおわすところにも、恐らく鉄砲娘の郷里にも、そして誰からも忘れられたようなこの山里にも、桜は咲く。
 例年、わりあいに早く花開かせる山桜ばかりを、人は愛でる。
 女も同じようなものだ。早く、美しく花を咲かせる者ばかり、人々は褒めそやす。
 濃紅の硬い蕾の中に、薄紅の花弁を見え隠れさせた、枝垂れる桜を開花前に見つけた、その喜びを知るものなど、ほんの一握りなのだろう。

 まだ大人には成りきれていない女の体躯が、白で覆われている。
 武家や公家の女童(めのわらわ)が欲しがる嫁様人形のようだ。
 成人した女性が持つ、しなやかに伸びきる身体の美しさと、少女特有の、無垢で柔和な可愛さが同居している。
 云百年前、至るところで合戦が繰り広げられ、東西南北の武士(もののふ)たちが、天下穫りを目指していた頃は、十六歳の女といえば夫を持って然るべき歳の頃合いであったそうだが、今は徳川の世。加えて、浜路はこの二、三年で世の中というものを身を持って知ったのだ。女性としての成熟が他人より遅れていても、不自然ではなかった。
 大きな大きな綿帽子に隠された顔の輪郭はまるく、ふっくらとしている。つきたての餅のようだ。
 量が多くて後頭部にまとめきれなかった、艶やかな栗毛の一房、二房が輪郭をなぞり、首筋に流れている。
 信乃の肌の色よりも、そして雪よりも白い絹織りの白無垢を纏い、楚々と振る舞い、そして信乃には、はにかむような、それでいて綻ぶような笑みを見せる。
 遅咲きの、形の異なる、だが確かに美しく在る、満開の枝垂桜を背負い、背筋を伸ばして佇む浜路は、この上なく可憐だった。
 これが俺の嫁だ、と叫び回りたくなる衝動、と同時に、自分以外の誰の目にも映したくないという情動を覚える。
 村の女たちの手により、嫁様人形よりも遙かに美しく着飾られた浜路を一目見て、数瞬ほど硬直し、その後、彼女と自らの着衣が崩れることにもお構いなしに、信乃が浜路を強く抱きしめたので、この一部始終を見ていた村人たちは、おいおいお披露目がまだだろうよと、てこでも動かない信乃を数人がかりで浜路から引き剥がしたのだった。

 武家や公家であるならば、一組の男女が夫婦になるに際して、神や仏にその旨を報せ、儀式を執り行って誓い、感謝の祈りを捧げる。
 庶民は神仏に祈らない。お互い様との言葉で支え合い、苦楽を共にする人々に報せ、祝い、祝われるのだ。
 後の世においては特に人前式と呼ばれる形の祝言を、信乃と浜路も挙げて、人入り乱れる喧噪のような宴を繰り広げ(宴のときばかりは都も田舎も同じだと信乃は感じていた)、それがようやく終わり、今に至る。

 信乃よりも重い衣裳を纏い、誰が見ても明らかに気を張っていた浜路がしゃんと普段着にしている小袖に着替えて、浜路よりは軽い衣裳を身につけ、式を挙げることに対する緊張よりも、晴れて夫婦となれる喜びに浸っていた信乃が、ほとんど下着だけのだらしない姿でいる。
 大事の後の気が緩んだところに本性が出ると、義姉が兄を睨めつけながら呟くように教えてくれたことを、浜路は思い出す。

「ほら、手伝うから着替えなよ」
「やだ」
「子どもみたいなこと言わないで」
「もう少しはこのままでいい。
 ……それより、手紙、読んじまった」

 茶具がまとまった盆をとりあえず横に置き、浜路は信乃が昔と変わらず普段着にしている鴇色の長着を手に取った。
 甲斐甲斐しく、そして嫁らしく夫を着替えさせようとするが、平然を装っているかのようで、実はばつの悪そうな信乃の言葉にその手を止める。

「冥土からの?」
「ああ。悪い、文机に置いてあったから、気になった」
「……いいよ。何も隠すことは書いてないでしょ」
「俺はあの眼鏡の娘に刺されそうだけどな」
「冥土はそんなことしないよ」

 浜路はくすくすと笑い声を立てた。
 信乃もつられて笑みを浮かべる。

「写真は確かにできないが、絵姿はどうにかなるかなあ」
「やめてよ、恥ずかしいじゃない」
「俺が描くか?
 職人には負けるが、これでもなかなかの腕なんだぜ?」
「だからいいってば。
 ……だけどね、江戸に住んでいるみんなにも、ちゃんと会ってお知らせしたいなって思うんだ」

 胸中、そして脳裏に、薄らと浮かぶ淡い願い。
 その成就が難しいことを、二人はよく知っていた。
 なぜなら、信乃は罪を犯したから。
 『伏』が辿るべき宿命を辿っていれば、彼は今頃、仲間がいる浄土か地獄かに旅立っている。
 それをあいこという形をもって引き止めたのが、浜路であるのだけれど。
 
「……一日、二日なら、行けるかもしれないぜ?」
「…………信乃?」
「できれば人が多い日の方がいいな。
 人は人の顔なんぞ、そんなに覚えちゃいられねえ。
 見たことがあるような顔があっても、人混みに紛れりゃわからんもんだ」
「……行けるかな?」
「ああ。お前さんも、大事な兄貴や眼鏡っ子に会ってないんだ、寂しいだろう?」

 俺もできるなら、一座の野郎共に顔出したいしな。
 信乃が、片目を瞑り、口端も片方だけあげる、何とも皮肉っぽい笑みを浜路に向けながら、付け加えた。

「い、行きたい!行こう!」
「分かった、分かった。じゃあ、いつにする?」

 人が多く集まる日ほど良い。
 万が一のことがあっても、逃げやすいから。
 浜路は、あー、とか、うー、なんていう寝言か呻きに似た声を上げながら、懸命に考える。
 信乃が表情筋を弛緩させながらじろじろ見つめていることに全く気づかずに。
 ぐずぐずと思案し、迷いに迷った後、浜路はようやく決断した。
 夏の大輪が幾重にも夜空に咲き誇る、夏祭りの日か、こちらのするかで相当苦しんだのだけれど。

「信乃、わたし、浅草のほおずき市の頃に行きたい。
 こっちもたくさん人が集まるし、いいでしょう?」

 ほおずき市。
 その時期をあえて選んだ浜路の意図は、信乃にも何となくは分かった。

 時は二年半ほど前に遡る。
道節が「一番いい実がついた鬼灯を買ってこい」と頼んだことが、始まりだった。

「ほおずき市?
 兄ちゃん、何だそれ」
「あー、浜路、お前はどこまでお前なんだ。
 ……まあ、たった半年くれえ前まではお山にいたんだもんな、仕方ねえか」

 何でもほおずき市というのは、浅草寺のお偉い観音様がまっすぐ見下ろしていらっしゃる境内で、赤く実った鬼灯の鉢植えを飽きるくらい並べて売るお祭りらしい。
 『市』と名前はついているけれど屋台や出店もこぞって顔を出すので、市場というよりは祭りと言った方が正しいそうだ。
 何より、ほおずき市が催される、文月の十日は知らぬ者はいない(山育ちの浜路は当然知らなかったが)四万六千日である。
 この日に観音様に参詣すれば、それだけで四万六千日分の御利益が得られるのだという。
 神仏などの存在をこれっぽっちも信じず、お天道様に背いて生きているような輩も。この日ばかりは観音様のところへ拝みに参るとか参らないとか。
 近頃、思い悩むことが多くなり、そのためか、幼い頃や数ヶ月前の再会したばかりの時には見られた快活な様がなりを潜めている。
 初めての伏狩りを契機として、朝顔が萎れていくように元気を失くしつつある浜路を、道節は道節なりに気に病んでいたのだろう。
 たまには女らしく紬の着物にでも袖通して、祭りでも楽しんでこい。
 兄がいつもの何とも情けない顔を見せて、頼みごとをしているふりをして、慰めようとしていることは、浜路にも分かった。
 だから、浜路は素直にそれに乗ることにしたのだ。

「ところで、何で兄ちゃんは鬼灯が欲しいの?」
「そうか、お前、鬼灯の効能ってヤツも知らなかったな」
「効能?鬼灯って薬草にもなるんだ」
「そうだ、とびっきりのいい薬草になるんだ。
 なんたってな、赤く実った鬼灯を一呑みすりゃあ、女子供の癪がたちまち治るっていうんだ。
 船虫の奴にぴったりだろ?」
「……道節、ぜーんぶ、ちゃあんと、聞いているからね?」

 腕利きの猟師にさえ気配を感じさせず、道節の背後をとった船虫が、黒い石頭をめがけてまっすぐに降り下ろす一部始終を見て、浜路は笑った。

 この日、かの人に会ってしまったことは、ただの偶然でしかない。
 青草を湯がかずに食べたときのほろ苦さ、えぐみ。
 この日の記憶はそれに似ている。

「……鉄砲娘、か?」
「…………し、の」

 予感はあった。
 これだけ人の集まる祭りである。
 何せ、四万六千日である。
 どこの誰でも、それにあやかりたいに決まっている。
 銀に似た白の毛並み、狗の面を被って、日の光のような首巻きを流し、鴇色の長着が厭でも似合うその人。
 ーー『人』、なのだろうか。
 不可抗力のおしくら饅頭を繰り返しながら、賑やかな境内を往く人々。

(誰か、気のせいだと言って)

 どうして、誰も気づかない。
 懐かしく馴染むも、江戸ではおそらく忌むべき生の血肉が生きている臭い。
 ほんの僅かだが、この場に漂う、獣の臭いに。

 なぜここに、という問いはしなかった。
 ほおずき市の日に浅草寺に参る。
 江戸に住む者なら当たり前にすることらしいと、兄に教わっていたから。
 だけど、それ以外にどの言葉をかければいいのか。
 お前は伏かと訊ねればいいのか?
 伏かもしれない。違うかもしれない。
 だが、仮にかの人が伏であるとして、どんな言葉をかければいい?
 伏狩り令の下、かの人の同胞を撃ったかもしれない自分に、どんな言葉があるのか。

(気のせいだと、違うと、言ってくれれば)

 人よりも綺麗なあの雌の伏が。
 陽光に溶ける金色の毛並みを持っていたあの人が、止めどない流血に、治まらない激痛に顔を歪めながら、開く前の枝垂桜に凭れかかって、浜路に託した最後の願い。
 宛名のない手紙は、今も浜路の懐にあった。

 二の句を継げられず、春色の紬を身につけているのに、両手で鬼灯の鉢を持ち、更には神妙な面もちで自らを見つめる浜路に、信乃はひとつ、ため息をついた。

「そんなにでっかい鉢持って、どうしたんだ」
「兄ちゃんに頼まれたんだ、大きければ大きいほどいいって」
「……へえ?
 さてはお前の兄ちゃん、お前の癇癪を抑えるために買いに行かせたんだな」
「…………そうかもしれない」

 癇や癪の気配など、どこにも見受けられない浜路が、いかにも元気のない様子で、是と頷いたのだから、今度は信乃が何も言えなくなる。
 道の真ん中は避けているとは言え、ほおずき市の往来である。
 道行き通りすがる人の肩や、場合によっては頭が、ただ向かい合う二人にぶつかる。
 邪魔になっている、と頭で理解しつつ、二人はそこから動くことができない。
 まるで、ここに信乃と浜路、二人だけしか存在しないかのような錯覚を覚える。

「信乃も」
「ん」
「信乃も、鬼灯を買いにきたの?」
「……ああ、鬼灯を見てると、何となくだが気分が落ち着く気がしてな。
 ただ、買いまではしないな」

 鬼灯を呑んでも、この乾きによく似た疼きは治まらない。
 白湯や酒ではとても潤しがたく、鬼灯などは子供だましの代物。
 陽光に透かせばきらきら輝く、ぬるりと柔らかく生温い伏にとっての鬼灯。

 ああ、今、ここで、こいつの心の臓から、そのまま抜き取って喰ってしまおうか。
 それが凍鶴、ひいては信兵衛への手向けになるかもしれない。
 伏狩る者なんて、みんな同じだ。
 それどころか、人なんて誰も同じで変わらない。
 見た目はどこまでも人と変わりはしないのに、伏というだけで、追い、殺め、死してなお、首を晒して辱める、人間など、誰も。

(違うかもしれない。
 この鉄砲娘だけは、浜路だけは、違うかもしれない)

 人の中に紛れ、人の振りをして暮らしてみても、気味が悪いと忌み嫌われる、白の頭髪。
 それを、ただ、きれいだと、ただ、美しいと。
 ただ単純に讃えたのだ、この子どものような娘が。
 長着の併せの中に忍ばせた、右手の、伸びかけた鋭い獣そのものの爪。
 あらゆるヒトの生珠を抜き取ることができる狗の爪を、人の爪へと戻す。
 脈打つような身体全体の痙攣を何とか押し殺す。悟られてはいけない。

「お前さん、観音様にお参りはしたのか」
「ううん、まだ。
 せっかくだから行きたいんだけど、先に鬼灯を買っちゃったからな……」

 両手が塞がっていては参詣はできない。
 かと言って、鬼灯の鉢をどこかに置いて参れば、そのうちに心ない者に盗られてしまうかもしれない。
 失敗してしまったと、人が行き交う境内で、浜路が途方に暮れているところに、信乃が現れて声をかけてきたのだった。

「よし、じゃあその鉢、持ってやるよ」
「……いいよ、信乃だってお参りに行きたいんだろう」
「もちろん、俺も行くさ。
 ただ俺は男で、お前は女だ。手の大きさも力も違う。
 それくらいの鉢なら、俺なら片手で持てる」

 俺が手を合わせるときには、鉢を持っていてもらうけれどな、と信乃は付け加えた。
 浜路には、なぜだか無性にその言葉が腹立たしかった。
 最近、何となく分かり始めたのだ。
 男女はずいぶんと身体の造りが違うこと。
 ゆえに、男には男にしか、女には女にしかできないことがあること。
 そのことをなぜか悔しく感じること。
 それから――、信乃の力の強さ、身のこなしの軽さは、初めて江戸に来た日に出会って、この身をもって、十分すぎるほど実感している。
 それが、一般的な成人男性のそれよりも、並外れて、抜きん出ていること。
 驚異的とも称せるほどに。……ヒトではないと言われても、納得できそうなほどに。

「…………分かった」
「何だよ、不服そうだな」
「違う、おれ、江戸にきてから色んなことが分かって、ただそれを信じたくないんだと思う」
「何だそれ」
「悪いか、自分で言っていても分からないんだ」
「そうかい。ま、観音様のところに行くのは決まりだろ。
 ほうら、その重そうな鉢、持ってやるから早く貸しな」

 信乃は言葉を継ぎながら、浜路が持つ鬼灯の鉢を片手でもぎ取る。
 浜路が両手でやっと持っていた植木鉢は、信乃の言葉通り、彼の片腕にあっさりと収まった。

 相変わらず人通りの多い境内を、二人は無言で歩いていく。
 つかず、離れずの距離で並び歩く二人は、醸し出す空気が神妙なためか、恋人にも、兄弟にも見えなかった。
 かと言って、本来の関係性である獲物と猟師のそれにも見えない。

「……あのさ」

 沈黙を破ったのは浜路だった。
 動いたと思えば、また止まる。延々たる速度の歩みに欠伸が漏れそうになる。
 だから、暇つぶしがてらに、隣を歩く信乃に話しかける。

「信乃は観音様になにを祈るんだ?」
「さあ……、これからも面白おかしく暮らせますようにって祈るかな」

 その言葉は嘘ではないが、本当でもない。
 そもそもにして、伏である信乃は、人ばかりに救いを与える神仏に縋るつもりは毛頭ないのだ。
 ただ、これから、いつか誰かに狩られて死ぬまでは、楽しく過ごしていたいと思ってはいる。
 いつか浄土か地獄に逝く時に、人ばかりが蔓延るつまらない現世で、こんなにも愉快に過ごしてやったぜと、信乃は死後の世界で仲間たちに自慢してやるつもりなのだ。

「そうか。
 おれはさ、手紙を届けたいんだ」
「手紙?」
「そう、手紙。
 少し前に、ある女から預かったんだ。
 もう自分では届けることができないからって、その女はおれに託した」

 のろのろと、行列は進む。
 ゆっくりと、時は流れていく。
 決して、戻ってはくれない。

「手紙なんだ、宛名くらい書いてあるだろ?
 ……そうだ、文字が読めなかったなんだな、お前」
「うん、そうだけど、ちゃんと届けるところは言われた」
「なら、届けられるじゃねえか。
 なんだ、まだ江戸の道には慣れないか」
「……違う。ただ、おれに踏ん切りがつくまでは、届けられない気がするんだ」
「…………お前の問題ってやつか。
 だがな、手紙は手紙だ。お前宛てじゃないのなら、お前以外にその手紙を待っているヤツがいるんだぜ」
「分かってる。分かってるんだ」

 そんなことを神仏に祈ったところで、何にもならない。
 互いに隣り合い、のたりのたりと歩む二人に、これ以上の言葉は交わされなかった。
 暑い夏の日だ。お天道様は空の一番高いところまで昇り、どこまでも隈なく照らす。
 だけど、人の心の、鬱蒼としたところまでには届かない。
 ひんやりとしていて、どこか薄ら寒さすら感じさせる空気が、二人の間に漂っていた。
 しとりとした湿気もあるそれは、不快なものではなかったけれど、ずっと浸ってはいられない。
 だって、あまりにも、寂しすぎる。



「今度、ほおずき市に行ったら、お願いしたいことがたくさんあるんだ」

 信乃はようやく普段着に着替えた。
 浜路は信乃の隣にちょこんと座り込み、肩を寄せながら緑茶を啜っている。
 囲炉裏には変わらず薪がくべられ、ぱちぱちという小気味いい音を歌の代わりにして、煤の群れが舞を披露していた。
 桜が咲いて散っていく皐月ではあるが、山里の夜は冷え冷えとしている。
 さすがに氷が張り雪降るような寒さはこの地からも去ったが、暖かくなってきたから、と油断をすれば、熱と鼻水を出して寝込むことになるのだ。

「……たとえば?」
「ふふ、これからのことを、たくさんお願いするの。
 ちゃんとこの村で暮らしていけますように、とか、怪我をしませんように、とか。
 農家の人が困る天気になりませんように、とかね」
「他には?」
「あとはね、江戸に行くから、江戸の兄ちゃんや船虫さんに、坊や、冥土に河原長屋のみんなが、ずっと元気でいられますようにって」
「おいおい、お前は他人のことばかりを祈るんだな」
「だって、恥ずかしいじゃない」

 浜路は俯き、空になった湯呑み茶碗に目線を落とす。
 囲炉裏からの熱気によるものか、それとも気恥ずかしさからか、もちもちとしていて柔らかそうな頬筋に紅が落ちて伸びていく様子が、横目でもはっきりと見て取れた。
 背中の中程まで伸びた栗色の髪が、火の色の光に照らされて、まるで水に濡れたかのように、てらてらと艶やかに光っている。

「信乃、お茶のおかわり、いる?」
「いや、まだ全部飲んでない」

 信乃は堂々と嘘を吐く。つい先ほどに飲み干したのだ。
 囲炉裏からの熱にあてられて、身体が火照る。
 疲労感というものは、不思議と喉と身体を乾かしてしまうものだ。
 もう一杯くらい飲んでもいいのだが、それより前に欲しいものがある。

「……私は全部飲んだ。
 もう一杯くらい飲みたいから、お湯を入れてくるね」
「待て、鉄砲娘。
 話をはぐらかそうとしたって、そうはいかねえぜ」

 盆と急須を持って立ち上がろうとする浜路の右腕を、信乃の左腕が掴み取る。
 ただの女の力では到底叶いやしない、伏の男の、痛みさえ感じる、それは強い力で。

「夫婦ってのは、隠し事はしないもんなんだぜ」

 読み本か何かで聞いた台詞だ。
 実際の世にごまんといる夫婦の中には、嘘で塗り固められた暮らしをしている輩たちもいるのだろうけれど、浜路はそんなことは知らないだろう。

「お前の願い事は、俺の願い事だ。
 すなわち、夫婦で一緒の願い事ってわけだ。
 さあ、臆せずに言ってみな、さあ」

 甘えたことなど滅多に口にしない浜路の願い事を聞くなど、そうはない機会である。
 いるかどうかも分からない、実在したところで恵んでくれなどしない無慈悲な神に祈るよりも、今日をもって夫となった自分へと願ってくれる方が、よっぽど有り難い。
 自分が叶えられるものなら、何でも叶えてやりたい。
 それが、今の信乃の願いだった。

(代わりに、俺の願いを叶えてくれるかと、いつか言えるだろうか)

「私はね……」

 浜路は、囲炉裏から少し離れた場所に、転がったまま置かれている手鞠を、左手を伸ばして手に取る。
 赤と白の糸で梅が描かれ、芯にある鈴が涼やかな音を立てるそれを、膝の上に乗せ、左手で転がす。
 その浜路の左手に、信乃の右手が重なった。
 ちりんちりんと鳴く鈴が止まり、また薪が小さく爆ぜる音だけが、室内に響く。

「私は、信乃と二人で、ずっと生きたい。
 ずっと一緒に暮らしたい」
「…………他にも、あるんだろう」
「………………うん。
 ずっと、ずっとね、神様に祈っていたことなんだけれどね」

 毎日、毎日祈っているのに、なかなか叶えてくれないんだよ。
 四万六千日の観音様なら、きっと叶えてくれると思うんだけど。
 浜路はそう、前置きをしてから、語る。

「……信乃は、きっと寂しいだろうなあって、私、思っていたの」
「……お前と暮らすようになったっていうのに、何でだよ」
「だって、私が一緒にいたって、信乃は、その……。
 独り、になっちゃったから。
 私が、そうしちゃったから」

 浜路はあえて、核心を語らない。
 信乃もあえて、鼓膜を震わす言葉にはしなかった。
 ただ黙って、浜路の次の言葉を待った。
 赤と白の手鞠の上に、互いの手を重ね合わせながら。

「だからね……。
 私がさ、もし、信乃のややこを授かれたらね、素敵だなって思っていたの。
 江戸で兄ちゃんと船虫さんの坊やの面倒を見ていたから、赤ちゃんとか子どもは可愛いなって思うし。
 ……たぶん、そうしたら、信乃も寂しくないでしょう」

 この手で転がす手鞠で遊ぶような、可愛いややを授かることが出来れば。
 信乃は、息を飲んだ。
 そのまま、動けない。

 それは確かに、神頼みという行為も場合によっては必要なのかもしれないが、まずその前に、旦那様と相談しなければならない。
 そんな文句が信乃の脳裏に浮かんだかどうかは分からない。
 ただ、江戸にいた頃は役者として飯を食っていた、そのことに今、心から感謝していた。
 慌てふためく滑稽なこの心を、浜路には見せたくない。
 まさか、お互い口にはしていないだけで、願っていたことが同じだなんて。
 その場をしばらくの間、沈黙が支配したのは言うまでもない。

(……それにしても)

 彼女の兄の道節と、義姉の船虫と言ったか。
 浜路をこの村に連れてくるまでの二年間、随分と大事に育ててくれたものだ。
 後の世で言う『純粋培養』というやつである。
 露骨な言い方をすれば、男を全く知らない身体、いわゆる生娘。

(有り難いが。この上なく有り難いことだが)


 信乃は浜路に、常々願っていた。
 ただ、心で願い続けるだけだった。
 人として生きることを選んでも、伏という種に生まれてしまったことは変えられない。
 だから、口にすることはどうしても憚られたのだ。
 お前の願いをどうやっても叶えるから、俺の願いを叶えてくれ。
 俺の子どもを、孕んでくれ、産んでくれなどとは、とても。
 しかし、しかし、夫婦になって初めての夜の、嫁様のこの告白である。
 いっそ口にしてしまっていれば良かったと、信乃が思ったか否かも、分からない。


「信乃?」

 長い間の沈黙が続いて、浜路はさすがに信乃の様子がおかしいことに気づく。
 本日の祝言の宴を経て、夫とした男の名を呼び、顔をのぞき込む。
 不安に揺れる瞳、紅く染まったままの頬、そして、上目遣い。
 もう、それだけで十分だった。
 自らに課した枷を外すには。

 彼女の右腕を掴んだままの左腕を力一杯に引き、そのまま彼女を己が内、胸の中へと引きずり込む。
 彼の思いがけない行動に応ずることが出来ず、ただかの人のなすがまま、それまで安定していた身体の均衡を崩されて、浜路は信乃の腕に抱かれる。

「散々煽ってくれたんだ、落とし前はきっちりとつけてくれるよな?」
「ど、どういうこと?」
「こういうことだよ」

 さすがに火の近くで致しては危なくて仕方ない、しかし布団を敷く手間は惜しい。
 信乃は浜路をその腕に抱え、火の元から離れると、その場で浜路の、女らしさは出てきたが、まだまだ子どもらしさを多分に残す身体を組み敷いた。
 訳が分からない。浜路の顔にそう書いてある。
 そんなことを気にする余裕は、今の信乃にはまるでない。
 彼女の程良く厚く、そして柔らかい唇を己が唇で割る。
 ぽかんと開いた歯と歯の間にすかさず舌を差し込み、その口腔内をやや乱暴に貪る。
 ――生珠を食む感覚と、好く女の唇を貪る感覚は、よく似ている、と思った。

「ひとつ、言っておく。
 そういうことは、先に言っとけ」

 存分に浜路の口内を味わい、恍惚の笑みを浮かべながら、信乃は息も絶え絶え、理性の線はちぎれかけている浜路にそう言い放ったのだった。


 
 『贋作・里見八犬伝』。
 雌の猟師と男の伏、異なる二つの糸が織りなす話の続き、これは異聞と称されるものでありましょうか。
 わたくしが語れるのはここまでにございます。
 きっと二人は幸せに暮らし、その血は密かに、確実と、そう、連綿と今の世へと引き継がれているのでございましょう。
 読み本という形においては、ここで幕を閉じるのでございますが、彼らの物語は終わりません。
 ずっと、ずっと、途切れることなく続いていくのです。
 真実の物語も、あなたの中で息づき始めた物語も、ずっと。
 その意味で、このお話に果てなどありません。
 だから、この続きはまたいつか、機会がありましたら語ることにしましょう。
 ではそのときまで、皆々様、ごきげんよう。
    

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