宵呑めば情に喰われ

 逃場は無きに等しい口内で、惑う舌先を敢えて泳がせてから絡め取る、温く生々しいその感触と、抜き取ったばかりの生珠を食む感覚は、それはよく似ているらしい。
 頬と頬、額と額、そして唇と唇が重なり合う、まさに眼前にいるこの男が、いつか言っていた。
 そういえば、彼はその時も酒に酔っていた。同じことをしていた、されていた。
 腹の中で醸した酒の臭気と、生まれながらの獣の臭いとが混じりあう吐息が、唾液に溶け込み、粘膜に染み込む。
 随分長いこと重なり繋がりあう口と口の端から、どちらのものか、分からない――あるいは、どちらのものでもあるのかもしれない――唾液が音もなく漏れ出す。
 うっすらと開かれた眼の中にある赤。近くて、たまらなく愛おしくて、時々、恐くも感じるもの。
 酒気と熱を十二分に帯び、かの人の生白い肌も桜のような、桃のような、薄紅色に染まりつつあったけれども、まなこの芯にある瞳はただただ赤い。
 残雪に落ちた椿の花びら、または一滴だけ落ちた生血のようだ。
 だとすれば、それに射貫かれ、抵抗はおろか身動きも出来ない自らとは一体何なのだろうと、溶かされ、ぼやけ、惚け始めた意識の片隅で、浜路は考えていた。


 信乃と浜路が共に暮らし始めてから二回目。
 二人が夫婦となってからは初めて迎える、雪降り、指先は冷えるが、喜ばしい年末の時候である。
 二人が暮らす山麓の村の人たちから、『信乃さんの嫁さん』であるとか、『浜路ちゃんの旦那さん』であるとか。
 もしくは、二人まとめて、『おしどり夫婦』なんて呼び方をされることに、浜路が気恥ずかしさやくすぐったさも感じつつも、やっとやっと慣れてきた頃。
 夜が明けて、雲の切れ間や山間から差し込む朝日を浴びて目を覚まし、浜路の身体を抱き込みながら眠りの海の中に漂う信乃を現(うつつ)へと引き上げる。
 炊きたての飯と味噌の香りを鼻孔から思い切り吸い込みながら、二人向かい合って朝餉を食す。
 お天道様が寝ぼけた顔を正しながら空のてっぺんへと登り始めたのならば、各々が仕事をする時間だ。浜路のいってらっしゃい、気をつけてね、という声に、信乃は後ろ手をひらひらさせて応えるのが常のこととなっている。
 昼餉をともにすることは稀だ。仕事がどうしても暇なときとか、どちらかの身体の調子が優れない時などは、また朝と同じように向かい合いながら食べるけれども。
 一日の仕事を終えて、親しみ慣れた我が家に帰ってきたのなら、夕餉の支度だ。朝餉の時もそうだが、切ったり煮たり焼いたりなどの仕事は浜路がするが、たとえば、大きな壺を運んだりとか、買った米を米櫃に移したりなど、力を使う作業は信乃が率先して行う。猟師時代は熊や猪と渡り合い、その屍を抱えて山奥から麓まで駆けたこともあるから、力仕事は慣れているよと、浜路は信乃に何度も説いてみたのだけれど、彼は可愛い嫁さんが心配なんだと言って聞かない。おかげで、最近すっかり身体が怠けちゃったと、浜路が眉尻下げて独りごちていたのを、信乃は聞かなかったことにしていた。
 何はともあれ、夕餉の支度をして、年の瀬のような寒い時期ならば、火を灯した囲炉裏の傍で、夕餉を頂く。互いに一日の労苦をねぎらい、その日の出来事を、時に面白可笑しく、時に真面目に話したりしながら。
 腹が膨れて少ししたのならば、提灯の油が勿体ないし、次の日の朝も早いので、さっさと布団を敷いて眠ることにしている。
 特に冬の間は、薪が惜しいし。お天道様がさっさと姿を隠して辺りも真っ暗になってしまって、暖気は暗く寂しく冷え冷えとした空気の中に消えていってしまう。囲炉裏で暖が取れたら、あとは二人、布団の中で互いの身体を温めあうのが得策ということで、明日の準備が終わったら、早々に寝間着を着込み、厚く重く重ねた布団の中へ潜り込み、夢路へと逃げ込むことが習慣となっていた。
 老若男女問わず気立てのいい村の人たちから、奥さんなどと呼ばれたり。
 こうやって、一年近くの間、信乃と寝食をともにすることで、浜路にはようやっと、信乃の妻となった実感が湧き出てきたのであった。
 ――ということを、今宵の夕餉の際に信乃に告げたら、お前さん、今頃になってやっとかよ、と彼は嘆息していた。
 呆れとも苦笑いとも取れるその相貌を一目見て、浜路の腹の虫がむっ、と刹那の間だけ蠢く。

「じゃあ、信乃はいつから、わたしのことを、お嫁さんだって思うようになったの?」
「そりゃあ、最初からさ」
「最初って?」
「決まってるだろ?春に祝言挙げた時だ。
 あー、それとも、ここに連れてきて、こうやって毎朝毎晩飯を食うようになってからか?」
「そんなに早く?」
「それじゃあ、お前さんよ、逆に聞くが。
 お前は、おんなじ屋根の下で暮らす俺を、祝言挙げる前は何だと思っていたんだよ?」
「え……、だって、信乃は信乃だもの。
 一緒に暮らしていても、離れて暮らしていたって、信乃は信乃でしょう?」

 信乃の問いかけに対しての浜路の答えは、信乃を伏とか獣とか、もしくはニンゲンなどという種としての類別は決してせず、信乃本人だけを、それこそ折れることも曲がることもなくまっすぐに見ているということの証左にはなった。
 そのことは、素直にとても嬉しいことだ、生涯噛みしめていくべき言葉だと、信乃は思う。彼の心の臓の拍動が止まらない理由になり得る言葉。
 しかし、それだけでは物足りないと思うことも、事実であって……。

 新年近づく年の暮れともなれば、お正月様をお迎えするための準備で、どこの家も忙しくなる。
 信乃と浜路が暮らす家も勿論例外ではない。
 江戸育ちだが親類のない、天涯孤独だった信乃は、松の内の行事には疎いらしい。酒を浴びるほど飲んで過ごすのが正月だと思っていた、とは彼の弁である。
 また、浜路も父母の背中をあまり見ないで育ったものだから、陸奥の国にいた頃のことや、義姉の船虫がやっていたことを思いだし、かつ村の女たちからの話を参考にしながら、霧中を模索するようにして何とか『正月の迎え方』の形を作っていったのだった。
 数日かけて皺無くふっくらと煮上がった黒豆に、たたきごぼうの用意は出来た。運良く卵が手に入れば、伊達巻きを作ろうかと思っている。
 山里に海の幸など到底届きはしないが、幸いなことに、浜路の両手でやっと持てるほどの大きな魚を譲り受けることが出来た。凍れる川の流れに逆らって泳いでいた魚らしく、白身だが脂がのっている。鰤や鯛の代わりに焼き物にしようか、それとも砂糖と醤油で甘辛く煮てしまおうか、というところで、浜路は悩んでいる。
 近くで農耕を営む家の人が、餅米を分けてくれたので、鏡餅を作って備えたのは昨日のこと。注連飾りもちゃあんと飾った。
 明日の大晦日の日に、また信乃に手伝ってもらって、餅をつこうと思った。
 小豆や枝豆はないけれど、秋に獲れた胡桃がまだ、木から落ちてきたままの姿で残っている。
 あと二つの夜を越せば、初日の出が登る。

 飽きもせず、空は薄墨色の雪雲が広がり、水気をたっぷりと含んだみぞれのような雪が、ぼたりぼたりと降り積もる。
 ただし、今晩は普段と少しだけ、違う。
 風が、ない。あんまりにもお日様が早く隠れてしまうことを嘆いて、さも寂しげに我が身を切って鳴き続ける風の音が、今日はひとつもない。
 だからだろうか。真正面から自らに抱きつき、双対の膨らみの真ん中に雪より美しい白い毛並みを持った頭を埋め、合わせた着物の間から、その下にある絹よりもしっとりとした、吸い付き甲斐のある柔肌をちろり、ちろりと舐め、わざと体重をかけてのしかかり、組み付こうとする男の少しばかり荒くなった息が、こんなにもはっきりと耳に届くのは。

 さあいよいよ年の瀬も年の瀬、大晦日だから、酒を飲んで目出度く、正月様というものをお迎えしようと提案したのは、信乃であった。
 それに特に反対もしなかったのは、浜路である。
 彼女の祖父も、年の暮れや年明けは酒浸りになっていたし、それを世話するのが偉い女房の仕事だと散々、しつこく、今でも鼓膜の奥にこびりついて残っているくらいに聞かせられたからだ。
 これもまた、夫婦としてともに並んで生きていくことを選び取ったからこそのことである。
 それに、今年もまた仕込んだ山葡萄の酒が、昨年よりもうまいこと仕上がったのだ。
 芳醇な山葡萄の香りは摘み立てのまま、しかし甘みは段違い。香りに酔い、甘みにも酔っていくうちに、酒に酔うという寸法だ。
 その代わり、出来上がった量はわずか五合。わずか一晩で飲み尽くしてしまっても何らおかしくはない量だ。飲み口がいい酒ならば尚のことである。
 目出度き時節は絶好の機会だ。浜路もあの葡萄酒を心ゆくまで味わおうと思い、大晦日の晩はお節料理をつまみつつ、酒を飲んで年を越そうかと決めたのだ。

 それが、なぜこういうことになるんだろうか。
 
「信乃、少し離れてよ、飲み過ぎだって……」
「なんでぃ、別にいいじゃねえか……
 俺たちは、夫婦(めおと)なんだからよぅ」

 ご近所さんにお裾分けしてもらった、それはそれは上等な清酒。
 苦くて辛くて、飲み干した後は喉がかっと熱くなる。燃えさかる炎を一呑みしてしまったかのような、耐え難い乾き、そして疼き。
 その感覚に襲われるのはあまり好ましくないことと捉え、浜路は普段はあまり清酒を口にしなかった。
 ところが、こんな大晦日の夜に偶々巡り会ったこの酒はどういうことだろう。
 辛みも苦みも全くない。それどころか、蜜のように甘く、十も数えない子どももねだってしまうのではないかと懸念するほど、飲み口がいい。
 飲み干した後に口内に気品のある香りがただ残る。花の蜜とも葡萄酒とも違うその後味に、信乃は勿論、浜路もすっかり魅了されてしまった。
 先に酔い潰れたのは、信乃の方である。
 意外にも、彼はそんなには酒に強くないのだ。
 耐え難い疼き、嘆き、悲しみ、その他、琴線が掻き鳴らされて抑え付けようがない衝動は、生珠を喰らうことで鎮めてきた。
 酒は嗜む程度には慣れているけれど、頼り切るまでには至っていない。
 こうして、逆に酒に支配されることは、ともに暮らし始めてままあったことであったが。
 浜路、俺の浜路よと、嫁様の名前を口にして、自らの長着の帯を緩め、浜路を抱き寄せ唇に吸い付いてきたのが四半刻前。
 ぎょっと目を見開いたのは浜路である。

「それは分かっているけれど、まだお布団敷いてないんだよ、片付けもしていないし」
「分かってねぇよ、てんで分かってねえ。
 お前分かってねぇだろう。俺がお前を嫁にして、どんだけ嬉しかったのか」

 これでずっと繋がっていられると、またはずっと手元に置いておけることになって、どれだけ安堵したのかと。
 夢と酔いの境界は曖昧だ。理性とかそれに近いものを失いつつあるとは言え、信乃が自らの心の内をここまではっきりと語るのは稀である。

「信乃、私だって寂しかったんだよ。だって、二年も離れたままだったじゃない。
 信乃のお嫁さんになれて、私だって嬉しいんだよ」
「…………やっぱり、まだ分かってねぇよ」

 分かっていない、のではなく、足りない、と言うべきだった。
 熱で意識が身体から剥離し浮き上がっているから、口が上手く動かない。
 言葉では上手く伝えられない。
 ――ならば、行動で示せばいいのではないか?
 どれだけ、どれだけ彼女が大切で、どれだけ欲しているのか、もう自分のもののはずなのに、好きだと何度も伝えてくれているのに、いつかは自分を置いていなくなってしまうのではないか、彼女に抱く愛も憎も、すべてこの身体で示してしまえばいいのではないか?
 男と女、人と伏。性ははおろか種さえ異なって『あいこ』になろうとする二人。
 どこへ行けばと彷徨うばかりの浜路の舌を奥深くから絡めて、より強く吸い上げる。
 酒と恥じらいで上気した頬が綺麗だった。食ってしまいたいほどに。
 空いた左手だけで上半身を支える、そのささやかな抵抗を、容赦なく突き崩す。自らの身体の重みをすべて彼女に掛けてしまえば、彼女が押し倒れてしまうことは、道理のことだった。

 こういうことをするのは初めてではないが、いつだって緊張するものだ。
 互いに同じことを思う。
 一つ処に暮らす男と女がやることだから、恥じらうのは女。男がどう思うかは、各々の気質にもよる。

「……しの、すきだよ」

 帯は解かれ、小袖の合わせなどとうに崩れ、大人の男の手のひらには収まりきらない程度の大きさの乳房の片方をやんわりと揉みほぐされる。
 息もせず意識が遠のくほど貪り合っていた唇は今は離れ、行き所を無くした透明な唾液が、だらりと浜路の首筋や胸元に垂れ下がる。
 焦点の定まらぬ、蕩け潤う茶色の瞳。水溜まりにたゆたう秋の木の葉のようだ。
 一人じゃどこにも行けない。水か枯れるか風が吹くか。一人きりじゃどこにも行けやしない。
 こういうことをするときの、可愛い可愛い鉄砲娘にそっくりだ。
 お前が望むんだったら、どこにでも連れてってやるよ。
 そんなことは言わない。蜜よりも酒よりも甘い睦言をその小さな耳に囁く気も、今夜はなかった。
 揺れる瞳。口端から垂れる粘りきった唾液。紅く色づき始めた肌。反応を始めた胸の芯。
 淫らだ。ただそれだけ思った。
 山深くからやってきた、鉄砲担いだ子どもを少女にして、その後に女に仕立て上げたのは、他ならぬ信乃自身である。
 自分が育てて、自分のためだけに咲くその花を、傍より逃してなるものか。
 べとり、と浜路の肌に張り付く二人分の唾液が描く線を、信乃は人よりは長い舌で彼女の首筋ごと舐めた。
 ひゃあ、と浜路がひとつ小さな悲鳴を上げたけれども、気に留めもしない。
 粘つく水を湿り気と熱を多分に含んだ舌で舐めとった後は、唾液の痕に沿って、浜路の肌に吸い付いた。
 乳房を求める赤子のように。
 細い首筋から大きく膨らむ胸元まで、一枚一枚刻み込まれていく紅い花。
 牡丹だろうか、椿だろうか。それとも、別の何かなのだろうか。
 二人が二人でいる証であれば、何だっていいと思う。
 その晩、寂しいと鳴かない風と、何も言わず、ただしどこまでも優しく、自らを掻き抱く信乃の代わりに、浜路は声を上げて泣いた。
 大丈夫だよ、どこにも行かない。私は信乃の傍にいる。
 だからそんなに怖がらないで。
 声に出して、伝えられれば良かったその言葉。酔いと熱を情欲の波に呑まれて流されてしまった。


 明くる朝、先に起きたのは信乃の方であった。
 初日の出を一緒に見ようねと、浜路と約束をしていたのではあるが。
 そのために今日という元旦の日は、いつもより半刻は早く起こされるはずであったのだが。

(……参ったな)

 朝にはそんなに強くない彼が先に起きるということは、彼女が疲れ切ってまだまだ起きられない、ということだ。
 浜路はいつも、からくりのように決まり切った時間に起きるものだから。
 ……こうして、抱き合った夜以外は。
 
 すでにお日様は天へと昇り始めたらしい。
 東の障子窓から、室内へ朝日が差し込み始めている。初日の出などは、もはや拝めまい。
 すやすやと無防備に眠っている浜路を起こしたくはないし。

 信乃は上半身だけを布団の上で起こして、それにも気づかず深々と眠り続ける浜路の顔を見やった。
 頬筋には涙の流れた痕。首から胸にかけては紅い花弁が幾枚も散っている。
 全部、自分のものという証。自らの嫁であるということの絶対的な証拠。

「しの……だいすきだよ……」

 眉根を寄せ、若干苦しげな表情ながらも、声音はとても優しげに、未だ眠りの最中の浜路がこんな可愛らしいことを言うものだから、信乃は再び重い布団の中に戻り、柔らかい彼女の身体を強く抱きしめた。
 もうこの手から離してなるものか、と、浜路の骨が軋む音を耳にするまで強く抱く。
 妙な怖れなどを抱く必要があるのならば、大切な彼女自身を抱きしめていた方が、よっぽど有意義だ。
 信乃が再び眠りに就くのはそれからすぐ。浜路と同時刻に起きて、初日の出見れなかったじゃない、と頬を膨らませながら怒られるまではあと一刻。
 
    
  
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