手鞠絡まり実りを祈る

 雪降る季節は夜が長い。
 山鳩が鳴くよりも夜明けは遅いが、そのくせ、夕餉に手を付ける頃にはもう、日はとっぷりと暮れてしまっているのだ。
 山麓の集落には黄昏た後の宵時の愉しみ、例えば、居酒屋での遊興とか、芝居であるとか、あるいは賭け事や花街巡りなんてのも、入るかもしれない、とかく、そういったものがないから、行燈が置かれているのは大体、家の中。しかも、人っ子少ない村里では、家が隣り合うなんてことは稀であった。
 人の世を治める徳川の家に、じかに統べられる江戸であれば、昼も夜もそれは華やかなものだ。
 何十、何百里も離れた山村には、影も形も匂いも在りはしないもの。
 おんなじ人様が作ってきた俗世であるのに、処違えばここまで違うものかねと、灯火ひとつ見つからない夜の景色を何となしに眺めて、信乃はひとり、思うのだった。
 
 師走は年の瀬も過ぎ去って、年明けは松の内から毎日毎夜の如く、綿の花のような雪が降っては積もる。
 毎朝溜め池に、白藍色の、鏡のような氷が張り、割ってみれば、ぎらりと鋭い切っ先を覗かせる昨今。
 頬が強張って皺が寄り、僅かにでも水気を含んだ髪が、滅茶苦茶にこんがらがった形のままで固まる、凍えた空の下、地の上だ。
 綿雪は降っても積もるだけ。地面に直接張り付く雪が、新たに降り積む雪に圧されて、身を徐々に詰めていく。
 古く重ね積まれた根雪は岩のように硬く、その上に、そっと足をのせる新雪は、羽毛のように軽やかで、柔らかい。
 されど、雪は雪。水を、土を、木を、昼も夜も、そして人までも凍て付かせてしまう季節の象徴である。

「信乃?ご飯できたから食べよう?」

 窓障子を三寸ほど開けて、寒風がびゅうびゅうと容赦なく室内に入り込んでくるのにも構わずに、雪景色を眺めていた信乃は、米粒のついた杓文字を持つ浜路の呼びかけに、胡坐を掻いた形のまま身体ごと振り向き、後ろ手で障子を閉めた。

 
 喧騒彩る江戸の町から、鳥と獣と風ばかりが鳴きわめく山里へと、信乃が浜路を連れてきて、どれほど経っただろうか。
 若い桃の木がやっと実りを抱くくらいに時が過ぎたように感じられる。
 が、実際は、吊るした柿の瑞々しさが失せ、老婆のように実を皺ませ、白粉を吹かせるほどにしか過ぎてはいない。
 おんなじ家で二人きり、同じ布団で寝起きして、似たような茶碗で飯を食うなど、夫婦(めおと)さながらに起居していれば、そのような錯覚を覚えても仕方がないのかもしれなかった。
 囲炉裏にくべた薪が、紅緋の火に身を蝕まれていく。ぱちり、と小さく爆ぜる音とともに煤と化した小さな分け身が、熱気に背を押されて火棚へと舞い上がる。
 火棚を潜り抜け、梁より上、天井より吊るされている自在鉤には、黒い鉄鍋がかけられていた。
 下衆な男どもの笑い声のような音と、大きなあぶくを立てて煮える鍋に、浜路が玉杓子を差し入れる。
 今晩のお品書きは、米飯と雉鍋、それと少しの山ぶどう酒だ。
 鍋汁や雉肉、長葱に白菜を掬い入れたお椀を、浜路は囲炉裏の近くに座する信乃に手渡す。
 飯はすでによそってある。お猪口には、申し訳程度の量のぶどう酒が注がれていた。

「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」

 二人同時に両手を合わせてから、もうもうと湯気を立ち昇らせる、出来立ての夕餉にありついた。

 浜路が骨の髄まで猟師だということを、信乃が真に思い知らされたのは、彼女が山麓にこびりつくようにしてあるこの村に来てからである。
 浜路はもう、伏は狩らない。伏との不思議な糸はぴんと張り詰められたまま、繋がり続けている。
 だからか、相変わらずの鉄砲を担いで、山に程近いこの家に着いてからも、家のことと何かできることを探してみると、狩猟はしない心積もりでいたのだが、冬将軍を向かえてからは、少しばかり考えを変えた。
 何せ、食糧が少ないのである。波のように襲う寒波に耐えられる野菜といえば、大根や白菜、葱などしかないし、米を買うのだってお金がかかる。
 更にはこの季節、川さえも凍る。川魚なんてのは、期待できなかった。
 出会った頃より、少しだけ痩せた信乃を目にして、浜路がいてもたってもいられなくなったことは、想像に難くない。
 それから浜路は、たまには滋養のあるものを食べよう、などと言い、蓑を纏って山に出向くようになった。
 頻度はそれほどでもない。そして、二人で食べきれるくらいにしか捕らない。
 どうしても余ってしまったときには、余所に譲っていた。
 代わりに何かしらの食べ物が貰えることもあるし、捕った獲物の毛や皮を、切ったりなめしたりなどすれば、味わい深い装飾品などができるので、悪いことというのはそうないのだが、彼女は狩猟を常のこと、生業にはしたくないらしい。
 信乃は何度か、狩りを手伝おうかと浜路に申し出たことがある。
 純粋な人である浜路よりも鼻は利くだろうし、脚力だって信乃の方が余程上。浜路を担いであっちやこっちを跳ね飛ぶなんぞ、当たり前にできるので、役に立てこそ、足手まといにはなりようがない。
 その自信があったから、最初のうちは何度も、しつこく、浜路について行きたいと願い出たのだが、彼女はそのたびに、首をぶんぶんと横に振って、信乃の申し出を断っていた。
 獲物を狩るところを、信乃には絶対に見せたくないの。
 普段は円らでぱっちりと開いたまなこを、すうっと細めて三日月よりも細い形にしながら、いかにも悲しげな、そして寂しげな声音で理由を語る浜路を説き付けることなど、信乃にはもはや、できなかった。
 ……だから、彼女に気取られないように気配を消して、時折、こっそりを後をつけている。
 狩りの帰り道、下山の途中に足を挫いて動けないでいるところを、助けたこともある。
 あれには、肝という肝が冷えたものだと、信乃は回顧した。
 しかし、しかしだ。彼女自身が望むこととはいえ、自らのために、命の奪い合いをさせてしまっている。
 並ぶものなどそうそういはしない、腕利きの猟師といえど、まだあどけなささえ残す少女で、彼にとってはかけがえのない女だ。
 だというのに。
 獲物を視界の内に捉え、重い引き金を引く寸前の、頬も目元も引き締まった顔つき。
 猟師と獲物が繋がる瞬間。
 あの瞬間のあの表情が、彼女が最も美しくなる時なのではないかと、信乃は思うのだ。
 もしも、自分と彼女の間で縒る糸の中に、まだ猟師と獲物のそれがあるのだとすれば。
 いつかは、自分のためだけに、あの綺麗な顔を見せてくれるだろうか。
 獣にすら嫉妬するなんて愚かしいと、ふっ、と笑い、そこまで思って彼は自嘲するのだった。



 信乃が浜路を連れて(あるいは江戸の町からさらって)、山麓に張り付くちっぽけな村にやってきたのは、紅葉も銀杏も散らばりきって地に敷き詰まり、その上に霜が芽ぐんでいた頃だ。
 もう今ではどうしようもなく、戻れもしない二年ほど前。
 憎悪で焼かれた町に歓喜の涙雨が降り注いで、懸命に火消しをしていた人たちが、やっと夢の底へと落ちていった時。
 夜が明ける前に、信乃は江戸から旅立った。
 そこから、あてもなく流れ、彷徨いながら旅を続け、辿り着いたのが、江戸からも京(みやこ)からも忘れられたような田舎の村だった。
 ムラサキが生い茂り、清冷な川水が山より流れ出でるこの村では、農耕や染物を生業とする人たちがほとんどである。
 商いや神職、住職などの変わった仕事をする人たちもいるにはいるが、極々一部だけ。米俵と一合の升ほどにも違う。
 都と村を行き来して食べている商人と、年貢を取りにやってくる旗本からの遣いの連中などを除けば、村の内と外を行き来する人間は皆無だ。
 今、ようやく二百余年の重く冷たい鎖が解かれようとしている日ノ本の中の、夏は緑に、冬は白だけに埋まり閉ざされる山里。
 晴耕雨読を是とするこの村と、危うくも賑やかな都は、切り離された別の国のようだ。
 その足で歩き、走り、時には立ち止まりつつの旅の果てに行き着いた場所なのに、信乃にはそう思えた。
 濃藍の海と赤茶の夕空との分かれ目の線の向こう側、お天道様を背負って到来した、黒金色の山のような船。
 その船に乗る生白い肌をした異人たちによって、国が開かれようとしていることを、この村の人々は信乃に聴かされて初めて知った。
 人も天も地も、引っ繰り返って魂消るこの一大事が、風でも噂でも届かない調子であるから、お江戸で伏狩りがあった、などということを知る由もない。
 そもそも、この世の中に、「伏」なる者があることすら、この村の人たちは知らないのかもしれなかった。
 

 『なんでぇ、賑やかなお江戸からわざわざこんな寂しいところに来たんだい?』

 眉根を浅く寄せ、薄く濁る双眸は糸のように細める。
 村に居留まることを決めた信乃に、村人たちが訝しげな目線をもって、異口同音にこう尋ねかけてきた。
 先代将軍とその老中が取り決めた人返し令は、流石にこの村にもずうっと前に伝わってきていたから、江戸へ出稼ぎに行く者はいなかったが、それでも旗本が治める城下町に出る若者は少なくはない。
 日に肌は焦げ、皺の数は年を追うごとに増すばかり、若竹のようにまっすぐと伸びていた背骨も曲がる年寄りばかりがわらわら群がるこの村に、大層若くて、しかもやたらと見目の良い男が住むと決め込んだのだから、疑られてもちっとも不思議ではない。
 比較的に若い人たちは、新しい風が吹き込んできたと言って、信乃を歓迎した。
 彩り溢れる江戸の町で、絢爛たる着物や飾り、そして崇敬や羨望、あるいは憎悪というものを一挙に詰め込んだ玉手箱のような舞台、その中心にいた信乃は美的感覚というものに殊の外優れていた。
 更には、細い割には力が強い。熊のような大男が音を上げるような力仕事も、朝飯前に易々とこなしてしまう。
 おまけに気取ったところが一切なく、小洒落た冗談も口にする。
 独り居所を求めての旅の道中、偶々に助けた染物屋の若旦那に礼がしたいからと逗留を願われ、酒の肴にと旅の事情を掻い摘み、自慢の美声と役者時代といかばかりも変わらぬ身振り手振りを付けて、面白おかしく語ってみせたら、住いと働き口の大盤振る舞いを受けた。
 そういうひょんな経緯(いきさつ)で、染物屋の手伝いをすることになった信乃だが、村に来て日が浅く、また、ただ一人で暮らしていた時は、年寄りに勘繰られることも多かった。
 なぜこんな村に居付くのかと問われては、ここがすこぶる気に入っちまったんだ、と返し、本当かあ?と疑念で以って返される、互いが眉間に皺が深く刻み込む問答の繰り返しだったが、浜路を伴って帰ってきてからは、村人たちの態度は様変わりした。
 ああ、駆け落ちか、そのためか、と。
 丸くて、白目よりも黒目の割合が大きい瞳をくりくりと開いて、あっちの家やこっちの山をきょろきょろと見渡す、まだまだ幼気なさが残る少女。
 肩先まで伸びる豊かな栗色の髪の毛の中に咲く紅色の牡丹が印象的な少女。その手を二度は離すものかと物語るように、がっちりと掴んだ白い毛並みの綺麗な男。
 赤い瞳を宿す目は細められ、口角の上がった形の良い唇が描く弧は三日月に似ている。それなのに、どこかしら物憂げな色を帯びている、その顔。
 これは駆け落ちに違いない。
 雪のように白いために、細く頼りなげにも見えるがその実、筋に程よく肉が張り付くその腕(かいな)で、少女の右肩を堅く強く抱き込み、まるで真冬の雀のように引っ付きあながら、二人並んで仲睦まじく歩いていく様子を目の当たりにすると、村人たちは身勝手な解釈をして、信乃がこの村へ棲み付いた理由を自分勝手に解釈したのだった。
 その話を後に聞いた浜路は、茹で上げたばかりの蛸のような真っ赤な顔で、村人たちの間で事実のように植え付きつつある噂を否定したが、信乃の方はというと、我関せず、という態度を取っていた。
 案外、その解釈は間違いではないと思っているからだ。
 それに、浜路が来て、そのような話が人から人へ、土に染み込み戻らない雨水のように流れ始めてからというものの、年寄りどもを初めとした人たちの態度が明らかに柔らかくなった。
 何かにつけて一生懸命、村の子どもたちの面倒を良く見てくれるし、そして右に並ぶもののいない腕利きの猟師である浜路。
 その隣に信乃が寄り添って、しきりに目を合わせあって、和やかに語らう様子は、見ている方まで安寧を得られるほど、悦ばしい光景であった。
 今は根深く降り積もるだけの雪が、春になって全て溶け失せ、その下、まだ種の若草が芽吹き、硬く縮こまった桜の蕾が春の麗らかな陽気で解れて花開くようになったら、祝言を挙げればいいと、ひっそり信乃の耳に囁きかける者もいる。それも、一人ではない。
 知らず知らずに人差し指で突き輪郭をなぞりたくなる、ふっくらとした頬。月のように真ん丸い瞳は、彼の姿を捉えると、いつも煌く。 なだらかで、そしてやや艶かしさを帯びた線で描かれる、日に日に女へと移り変わる身体。
 花嫁衣裳に身を包んだならば、柔らかでうらうらとした春の景色の中に、どれだけ映えるだろうか。
 白無垢を着せるために、信乃が染物屋の若旦那やその他の衆と水面下であれやこれやと画策していることは、浜路には秘密である。
 

 雨にも雪にも濡れていない山ぶどうをたくさん採って、潰してどろどろにする。
 それに適量の砂糖を加え、壷に入れてふたをする。
 そうして半月からひと月置いておいて、うまくいけばぶどう酒になると、浜路に教えたのは、毎年ぶどう酒を仕込んでいた彼女の祖父である。
 桑の実の色をした、郁々たる香りを漂わせる飲み物を、幼い浜路は何度祖父にねだったか。
 甘酸っぱくて、そして少し、喉の底をじんわりと焼いていく大人の飲み物を口に含みながら、浜路は傍らにある手鞠に手を伸ばした。
 白と黄色の糸と、赤い糸で梅の模様が描かれている。
 畳の上で転がしてみれば、芯に入った鈴が軽やかに音を奏でるそれは、信乃から贈られたものである。
 江戸から村へ向かう長い旅路のさなか、休息を取るために訪れた宿場町。年の瀬近づき、新年を迎え入れるために、黒豆の仕込みや鰤や数の子の買い付けに行く人たちと、盛沢山の食材を仕入れて備えてきた商人たちの熱気を湯として、市場が鍋のように煮えあがっていた。
 走り回ることさえ無邪気に楽しめる子どもたちにとっては、正月遊びが待ち遠しい時期である。
 駄菓子屋にて、竹とんぼや紙風船と並びあい、極彩色に染められた綿糸で巻き上げられた手鞠が棚に置かれていた。
 そこは製糸業が盛んな土地でもあったらしい。土産屋にも雅やかな模様と色遣いで巻かれ、少女たちの心をくすぐる手鞠が極楽に咲く花のように美々しく咲き誇っていた。
 これでもか、というほどに、手鞠に心をくすぐられ、見蕩れ、目までも奪われたのは浜路である。
 しかし、準備すらする間もなく江戸を出たため、路銀さえも持ち合わせてはいなかった。
 自分の手持ち金では到底買うことは出来ない。かと言って、信乃にねだる訳にはいかない。旅の途中である。余計な考えで、要らない贅沢で、金を無駄にしてはいけないのだ。
 どうしても、何としても欲しい、という気持ちをどうにかして飲み込み、胃まで腸まで流し込んで、さあ宿場町から出立だ、という時に、にんまりと企むように破顔した面持ちの信乃から、それを投げ渡された。
 お前の寝言がうるさくてな、と相も変わらずの笑い顔で告げる信乃に、ありがとうと何度も繰り返しながら抱きついたことを、浜路はよく覚えていた。
 ――とは言っても、そう古い昔の出来事でもないのだが。
 
「お前、こんな時間に手鞠遊びなんてするつもりか?」
「まさか。もうすぐ眠る時間だもの、ちょっと触るだけだよ」

 江戸からここまでの道中に、一目惚れしたその手鞠を、浜路はいたく気に入っていた。
 信乃が、ちょっと妬けてしまうくらいに。
 家事も何もすることがない時は、手鞠をその肉付きのよい腿の上で転がせている。
 父も母も働きに出た村の子どもたちと遊ぶときにも、その傍らには常に手鞠がある。
 浜路がたいそうな子ども好きであることを信乃が知ったのは、この村に来てからのことだ。
 河原長屋に住んでいた頃から、近所の子どもとは良く遊んでいたらしい。
 兄夫婦に子どもが出来て、その面倒を見るようになってからは、子どもの世話を見るのが楽しくて仕方なくなった、と浜路は信乃に語っていた。
 幼子がいかに愛らしい存在かということを、身振りを交えて熱弁しながら。
 浜路よ。お前さん、そんなに子どもが好きかい?
 信乃は浜路にそう尋ねてみたことがある。
 浜路は間髪入れずに、うんっ、と大きな是の声を挙げながら大きく縦に頷いた。
 そうか、と分かったのか分からないのか曖昧な返事を信乃は返した。
 明らかに憂いが浮かび上がるその顔は見せなかったけれど、遣る瀬無さが明らかに混じるその声音を、彼女は聞いていたのだろうか。

「…………そろそろ寝るんじゃなかったのか?」
「あ、ごめん。すぐにお布団の準備するから、待ってて」

 ふたり同じ屋根の下で暮らし始めてから、こういうことがたまにある。
 赤い糸地に白梅がいくつも巻き描かれた手鞠ごと、自らの身体を抱きしめて、光も何もかも届かないほど二つの瞼を固く瞑り、おそらくは何かを祈る様。
 影はなく、形もない。そもそもにして、いるかどうかも分からない、神仏に向かって。
 何を祈っているか、信乃は問うたことがない。否、問えないのだ。
 邪念を全て振り払い、天へ向かって『何か』を祈り続ける浜路には、例えば誰一人、獣さえも跡をつけていない雪原のような、汚してはいけない、侵してはいけない、声を掛けることすら躊躇われる清らかな何かがある。
 こうやって、意識の一部さえ天へ昇って行った彼女を、俗世へ引き戻すときには話しかけることは出来るけれども、一体どんなことを願って、こんなにも祈りを捧げているのか、信乃は訊くことができない。
 ゆえに、彼女の願いは、全く分からない。
 自分に願ってくれれば、いくらでも叶えてやるのに。
 天へ祈りを捧げる浜路へ、信乃は望む。そのこともまた、鼓膜を震わす言葉になって伝わることはないけれど。
 囲炉裏にくべられた薪が、ほんの少し触れてみただけでほろほろと崩れる灰と化し、その合間に潜む残り火が、再燃を夢見て密かに静かに息を続けている。だけど、四半刻もしないうちに夢は破れ、灰色の中に埋もれて消えるのだろう。
 まだ熱を持つ囲炉裏に残された信乃のすぐ近くで、手鞠がちりんと鈴の音を立てながら転がっていた。


 然も当たり前のように隣り合う、似た様な絵柄の布団が二つ。
 敷布団と掛布団の間に潜り込んで、氷のように冷え切ったそれらを、自らの体温を移して解していく。
 たった一人ならば、ため息が出るほど虚しさが増し、どこかうつろな心持の中でうつらうつらと眠りにつく、そんな物悲しい作業であるが、二人、形も大きさも違う身体を摺り寄せてやるのならば、不思議と楽しくなる。
 冬の空気に晒されて、血の気の失せた四肢、手と手、足と足を互いに温め合う。
 頬同士も合わせるが、ふとした折、唇が重なってしまうたびに、浜路は驚き、肩を竦めて小さな身体を更に縮み込ませる。
 自分の体温と相手の体温が融けて、境界線がどこにあるのか、分からなくなるような感覚がまた楽しい。
 そのうち、敷布団も掛布団も、自らも、相手も同じような温さになって、父母に抱かれているような、あるいは揺り籠に揺られているような、心置きなく安堵できる心地よさの中に身も心も捕らえられて、眠りの国へと誘われる。
 ――――浜路の場合は。

 相手の寝巻きを掴み込み、すやすやと安らかな寝息を立て、すっかり眠ってしまった浜路の背中を、信乃は何となしにさすっていた。
 まだ、目も意識もしっかりと冴えている。あと半刻ほど経たなければ、浜路と同じところへは行けないだろう。
 女童そのものの、無邪気で無垢な顔して眠る浜路の唇に、信乃は自らの唇を重ね合わせた。
 薄くはないふたつの唇の線を、内も外も舌ですっかりなぞって見せる。浜路は僅かに眉根を寄せる。
 自らの両唇で彼女の下唇を挟み、甘噛みしながら軽く吸い上げると、今度はやや苦しげな声を上げた。
 ……彼女に如何わしい、普通の女と男がするようなことをするのは、ここまでだ。これが限度だ。
 長く伸び、炎のように赤い舌で、浜路の歯列や歯茎の凹凸をじっくりと舐めながら、信乃は自らに言い聞かせる。
 八匹目の伏の首はしっかりと晒され、里見の姫が産み落とした悲劇の連鎖は徳川の世で締め括られた。
 江戸の町、そして日ノ本の国から伏という存在はいなくなった。いなくなったはずなのだ。
 人を食らう、伏。生珠を食らう、伏。人により治められる現世では、生きることすら許されない。
 畜生ひしめくろくでもないこの世に、生み落とされた、それだけできっと大変な苦労をする。
 何よりも、自分たちの血筋を残してはいけない。血塗られた手で殺生と罪を幾重にも重ね続け、それでも恋しい人とともに、人として生きることを選んだのならば、伏の血は一滴でも受け継がせてはいけない。
 分かっているのに。それなのに、それなのに。
 浜路を抱きたい、孕ませたい、自分の子どもを生んで欲しいと、願ってしまうのは、伏であるゆえの本能なのか。それとも、自分だけのために花開く女へ向けての欲望か。
(願ってくれれば、何でも叶える。だから浜路、代わりに俺の願いを叶えてくれ)
 それできっと、あいこになる。その解釈は、あまりにも我侭だ。
 願うだけならば、祈るだけならば。
 僅かに開いた歯と歯の間に、すかさず舌を差し入れ、逃げも隠れもせず真ん中に鎮座する彼女の舌を絡め取る。
 夢うつつ、浜路がはっきりと苦悶の色が宿る声を挙げようとしたけれど、泥水のようにくぐもる声が、断続的に信乃の耳に届くばかりで、夜の冷え冷えとしていて侘しい、静寂そのものたる室内の空気を、震わすことはなかった。
    

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