乞い文

 昼間はお天道さんが漲り滾る力のままに、人ばかり群がる大通りから、女子(おなご)の髪の毛のような路地裏の細道まで、漏れなく隈なく照らす。
 水の青と塩の白、そしてそれらに比ぶれば、おもちゃのような釣り船が、いつまでも停まることなくたゆたう海原。
 人なる者にも、人ならざる者にも等しく恵みを与えてくださるお天道さまが、でっかい群青の蒲団をかけられて、いやまだ眠りたくないと、まるで稚児さながらに、夕日の色した顔で駄々をこねる。
 そんなことを訴えてはみても、いずれは眠ってしまうところも、稚児のようである。
 さて、数多の星と毎夜気まぐれな月が代わりに昇ったとして、日の光に叶うことは決してない。
 徳川の世がいくら安泰であるとしても、酒に酔い、女に酔い、夜に紛れて宵に溶い、罪を犯す者がいない訳でも、決してない。
 しかし、罪人も、勿論そうではない者も、お江戸に住んでいるならば、間違いなく心奪われる花がある。
 夏の夜の水辺、刹那の間に咲き、重なり、散っていく、花火である。

 首を長くして待つ、という言葉がある。
 浜路ちゃん、そのうちろくろ首にでもなっちゃいそうだね、とは冥土の弁だ。
 これまで学に触れずに生きてきた浜路は、比喩なんて文学の手法なんて分からない。
 おれ、このまま妖怪になっちまうのかなあ、と、大きな瞳いっぱいに涙を溜め、乳離れし始めた甥っ子をあやしながら呟いていたのを、道節と船虫が目撃したので、冥土は浜路の兄夫妻からこってりと絞られたのだった。
 時同じくして、若夫婦は同じことを思う。
 そよ風にも、細波の形に身を刻む湖のように、揺らめく瞳。
 時の移ろいに色も水も奪われ、木枯らしに吹かれる落ち葉のように、揺れる声。
 この娘は、いつ、いつの間に恋をしたのだろう。
 いつから待っているのだろう。いつになったら、実るのだろう。
 いつかは、いつかは実るのだろうか。
 ろくろ首にまではならずとも、浜路は待ち続けていた。
 この江戸で、何度朝と夜を繰り返しても、どの季節も物言わず季節が去ってしまおうと、信乃からの手紙を、ひたすらに待っていた。

 この世に神か仏がおわすとして、そんな方々が、ちょっとばかり、うたた寝をしたような、わずかな間。
 一年や二年というのは、高尚な存在からすれば大したものじゃないのだろうが、人が変わっていくには十分な長さだ。
 浜路の兄たる道節と、その恋人の船虫が夫婦(めおと)となり、子をなした。
 道節が念願の士官はならなかったが、伏退治の功績と確かな剣の腕が認められ、何かしらの大きな騒ぎがあれば、それを成敗するなどしていた。お偉い大名なんぞから、用心棒なんてものを頼まれることもあるにはあった。
 しかして、伏の騒ぎが収まり、『外』からの兆しというものはあるものの、泰平を保つ徳川の世で、騒ぎというものはそうそう起こるものではないので、店を構え、毎日忙しくも楽しく厨房に立つ船虫の手助けをするのが専らのことである。
 浜路も大凡は同じだ。昼にはめまぐるしく働く兄夫妻の代わりに、かわいい可愛い甥っ子の面倒を見ていた。
 抱く男童はただ柔らかく、ただ小さく、まだ微かに乳の匂いを漂わせている。
 それが浜路には懐かしく感じられた。
 乳飲み子の頃のことなど、覚えてはいないはずなのに。
 それと同時に、そして不思議なことに、目新しいという、相反する感覚も覚えたのだった。
 
 大山浜路が、瓦も柱も蒲葡の色に塗り込まれた大層な屋敷、馬琴庵に足繁く通い始めたのは、一年と半年程前のこと。江戸にきて初めての冬を迎えようとしていた頃だ。
 紅葉の衣脱ぎたる木の枝が、細雪の薄衣を纏わりつけていた頃。
 いつかの再会を、彼ら二人の因果の地で約束した後、浜路が冥土に請うたのだ。
 あいつに手紙を書きたいから、文字の書き方を教えてほしいと。
 もう江戸を離れざるを得ないけれど、落ち着けるところに辿りつけたら、その居所をどうにかして知らせると、彼はそう浜路に言い残し、朝日が昇る前に去っていった、らしい。
 八匹目の伏の首は晒され、江戸の町から伏は消え失せた。
 町人の大半はそれを信じている。
 が、それを信じない者も、ごく少数だが、いるにはいる。
 まだ伏は生きている、泥の中でも這い蹲り、残飯を漁ってでも生きる、しぶとい犬畜生そのものだから……。
 犬ではなく、伏でもなく、人として生きることを選んだ彼だが、江戸では人を殺めた罪人である。
 顔も割れている。
 仮に、そして万が一に、将軍たる家定公が、騒動の一部始終について箝口令を敷いたとしても、噂は広まるだろう。
 煙のように、香りのように。
 音はなく、密やかに、しかし、ひたりひたりと、確実に。
 目覚めながらに観る宵の夢、歌舞伎。
 それを彩る虚実の美女、深川一座の看板役者の黒白は伏である。
 衆人に知れれば、如何なることが起きてもおかしくなくなる。
 故に、彼はもう、江戸にはいられない。
 それでも生きていたい、浜路とつながっていたい。
 そのために、その伏は、いや、そのヒトは、江戸から姿を消したのである。

 彼が居所を教えてくれる前に、文字を覚えたい。
 すぐに手紙が出せるように。
 それが、これから親睦を深め、唯一無二の親友となっていく冥土への、浜路の願いだった。


 猟師としては文句なしに腕利き。料理の腕も立つ。
 山育ちにしては器用(と兄に言われた)な浜路であったが、文字の修得までは器用に立ち行かなかった。
 まずは簡素な平仮名から覚えさせようとしても、うまく行かない。
 文字と音がうまく結びつかないらしかった。
 なるほど、素直で頭の柔らかい幼子であれば、すんなりと頭に入ってくるのだが、浜路はこの時十四歳。理屈や雑念が邪魔をする。
 それでもようやく五十の文字と読み方が一致した頃、今度は文字の書き方を習い始めたが、これも当然のように、なかなかに難航した。
 墨の加減はいつも濃いか薄いかの両極端(濃い場合が多い)、小筆に墨を吸わせすぎる、そして和紙を殴りつけるような筆遣い。
 年頃の女子の書き文字のような繊細さは欠片もなかった。
 早くあいつに手紙を出したい。
 その一心で、毎夜毎夜、灯火が消え失せ、月と星の仄かな煌めきだけが光源の、夜半は丑の刻まで、浜路は和紙に文字を連ねた。
 陸に上がった鰻が、水を得ようと地を這い擦る様のようであるとか、踊り喰われた泥鰌が口の中でもがく様のようだとか。
 もしくは、直に悪筆だと兄に言われようと(ちなみに道節はその都度船虫からの制裁を受けた)、浜路は文字を連ね続けたのである。

 橋の上で別れ、春夏秋冬、季節が一巡した頃。
 平仮名を覚え、片仮名を覚え、簡易な漢字も覚え、筆致も流麗……とまではいかなくとも、まあ誰が見ても解せる程度にはなった頃のこと。
 彼から、そう、信乃からの報せが届いたのだ。

 遠いどこかへ、当座の居所を求め、旅立った信乃からの第一報は、手紙ではなかった。
 見た目は平々凡々だが、頭のきれっぷりは名刀の如し。先の見通しが利くこと鷹の目の如し。
 江戸と地方を行き来する商人の男が、浜路にとってこの上ない吉報を持ってきたのだ。
 さて、この男の話を聞くに、信乃はお江戸からは遠く離れた村にいるらしい。
 そこは、かつて浜路が生きていた、陸奥の国の山のような、田舎そのものと言える場所らしい。
 お江戸の町じゃ、随分と華やかな場所にいた信乃が、そんなところにいるなんて、と初めて聞いて浜路は唖然としたもので、信乃も当初はこんなところで暮らせるのかという不安に苛まれたようだが、自分でも不思議に思うほどにあっ、と言う間に馴染んでいったと、男に語ったという。
 男も、浮き世から離れた佇まいの色男が、田舎暮らしなんぞに耐えられるはずがないと決めてかかっていたのだが、あっさりと溶け込み、その地の色に調和していく信乃を目の当たりにして、舌を巻いたとのことだ。
 信乃の居場所を知るその男に、自分の想いのありったけを魂のままに書き綴り、心ごと託したのが半年前。
 江戸の夜空に花火咲く今。
 託した心とともに、かの人の心が宿る手紙が、返ってきたのである。


 祭りも花火も喧噪も、お天道さんに恋して頬染める鬼灯も、向日葵も朝顔も、秋風に吹かれれば呆気ない。
 暑い夏の夢に見たこと全て、しとり、しとりと落ちる雨粒に滲んでいく。
 しかし、夢を見た、という事実は消えない。
 芯にある真実は、いつまでも、残り続ける。
 
 竹櫛を何度も入れて梳かした栗色の髪が、頼りなげな提灯の灯りにてらてらとした光を返す。
 山から流れ大海に出ずる河川のように、緩やかにうねる髪は、肩を少し過ぎたくらいまで伸ばされていて、まるでびろうどの舞台幕のように、その下にあるうなじを隠している。
 ありふれた偶然の折にのみ、覗ける首筋の線の形や細さは、間違いなく女のものだ。
 柔肌を守るように産毛が生えるそこはきっと、想像するよりも滑らかで、しっとりとしているに違いない。
 雪解けの空の色で染めた紬は、孔雀の羽根の色の帯で絞られている。
 淡い色合いゆえに、日光の中ではなく、月の下、闇の中でこそ浮き彫りになる、肩口から腰回りまで、そして脹ら脛までが描くなだらかな線もまた、男にはないものである。
 長い睫が揃う眼(まなこ)を憂いがちに伏せ、ほう、と白混じりのため息をつく様は、女子(おなご)そのものだ。
 陸奥の国から都に出てきたばかりの、小僧のような姿の面影はもはやない。
 顔も名前も知らない誰かから、文やささやかな贈り物をもらうということも、あるようになった。
 もっとも、相手にはしないのだけれど。
 豊かな栗色の頭髪の中、牡丹の髪飾りは今日も咲く。
 浜路は、遠くにいるただ一人のために、花開いていた。

 浜路が読み書きの練習、との名目で、馬琴庵は親友の冥土の処に通い始めて二年が経とうとしている。
 勿論、読み書きについては今でも冥土を師とし、習い続けてはいるが、最近はお喋りに熱中することもしばしばなのである。
 うら若い女が二人でも集まり、甘い菓子が手元にあれば、勉学も何もかもそっちのけで語らうのはさほどおかしなことではない。
 浜路にとって初めてにして最大の親友、そして読み書きの師匠たる冥土。
 兄である道節や兄嫁である船虫に甥っ子の坊や、もしかすると、恋しいあの人よりも、近い存在であるのかもしれない。
 その冥土にも、話せないことがある。
 内の腑の奥から、喉元までせり上がり、口や鼻腔の縦横を駆け回る、それ。決して、外には出さなかった、それ。
 信乃から届いた手紙の内容のことである。

 さて、かの滝沢馬琴が孫娘、滝沢冥土が処女作にして、江戸中を湧かせた有名な読み本、「贋作・里見八犬伝」の"果"、すなわち締め括りはこうである。
 『伏からの手紙が届いた』。
 後の世にて、人と人ならざる者との、それは切ない恋物語として、主として女性からの喝采を浴びたものである。
 雌の猟師、浜路と、男の伏、信乃が織りなす、淡く甘い物語。
 続きがあるらしい。
 噂だけは誠しやかに語り継がれてきた。
 続きの物語を、誰一人として、その目に見たことはなかったけれど。

 たった一人の肉親の兄たる道節にも、唯一無二の親友たる冥土にも、話せはしなかった、手紙の中身。
 やっとやっと、帰ってきた信乃からの返事。
 どうにかこうにか落ち着けた、元気でやっていると、近況を浜路に報せた。
 あの満月の夜、お天道さんが顔を出す前に江戸を離れ、流れ辿りついた場所に、ひとまず腰を落ち着けている。
 ずっと繋がっていてくれるかとの問いかけに、浜路は刹那の間の躊躇いすらなく頷いた。
 だけど、だけど、江戸を離れてみてこそ、思う。身に染みる。
 繋がっていると分かってはいても、傍にいてくれないのは寂しい。虚しさがこみ上げてくる。
 だから――。

「こっちに来ないか、か……」

 不便はさせない。
 一度江戸に出てしまった身だから、またもの田舎暮らしにはさぞ戻り辛かろう。
 それでも、傍にいて欲しい。
 空に浮かび、千切れ、流れ、いつか消えていく雲のように、飄々としていて、そのくせ、いつもどこか寂しげに佇んでもいた、信乃。
 寂しくはないと口では言い張っても、顔ではぼろぼろと止めどない涙を流す幼子のような、信乃。

(わたしだって、会いたい)

 その手紙を読み終えた後、浜路はすぐさま紙と筆を取った。
 溢れ出る感情のままに、白い便箋に、色濃い黒に仕上がった墨で書き綴る。
 文字を書くのは、文章を書き連ねていくのは、とてももどかしいと、浜路は思う。
 文だけでは足りない。言葉だけでは足りない。
 だから。
 信乃の叫びのような誘い、問いかけに対する答えを、すぐに返さなければならない。
 それは、信乃という伏と繋がって生きることを決断した浜路の義務だ。使命だ。
 明くる日、霧に朝日差し込む薄明の刻、飛脚に手紙を託す。
 すぐさまに、北へと向かうために、豆粒よりも小さくなっていく飛脚の後ろ姿を、浜路はただ、見つめていた。
 今朝も番いを求め、うるさくも切々に、蝉どもが鳴き始めていた。
 
 ひとつの昼夜だけにふらりと舞い飛ぶ蜻蛉のような、炎天の道端に揺らぐだけの陽炎のような。
 確かにそこにあったのに、消えてしまったように感じられるもの。
 信乃から浜路の元へ、手紙が届いた。
 いつでも浜路の懐に忍ぶ手紙は、疑いようのない事実そのもの、証左である。
 だけれども、今にも天にまで浮き立ちそうな身体を、つま先だけでふん縛るような夏の日のときめきは、なくなりつつあった。
 一瞬だけ輝かしく艶やかに花開いて、呆気なく散っていった、あの夏の日の花火のようだ。
 信乃からの手紙が届いてから三ヶ月。浜路がそれに返事の手紙を出したのはその次の日。
 かの人からの再度の手紙は、まだ届いていない。

 浜路が最初に手紙を送った冬の日から、返事が届いた夏の日まで、随分な時間が空いてしまったことには、理由がある。
 江戸の町から信乃のいる村までは遠い。陸奥の国の山奥の家ほどではないにしろ、辺鄙な場所にあるには違いないらしい。
 それに加え、信乃は迷っていたらしい。返事を書くべきか、書かぬべきか。
 書く、と決めた後も、どういう文面にしようかと、悩みに悩んでいたらしい。
 飛脚曰く、江戸から村まではひと月掛かるか掛からないかの距離とのこと。
 信乃もそれを知っていて、次はもっと早く返事を送れると思うと文の中で綴っていた。
 しかし、花火散り、向日葵も朝顔もとっくに枯れ果て、木々が木枯らしに身を剥かれる、秋と冬の狭間の時候。
 もう届いてもいいはずの手紙が、まだ来ない。

 背中には相変わらず鉄砲を背負い、右手には丸形の弓張り提灯を持って、浜路は夜道を歩いていた。
 馬琴庵から帰る道すがら、いよいよ開国だとか、日ノ本ははどうなっちまうんだとかいう、口調だけは恐れて声音は実に楽しげな町人たちの声を、何となく耳にしながら、ただ歩いている。
 "読み書きの練習"の帰り道、戌の刻の正刻も過ぎてしまったものだから、兄夫婦と可愛い甥っ子の待つ家へ急がなければならない。
 しかし、浜路には、遠回りになると分かっていても、必ず通る道がある。
 猟師と伏の因果が集う、赤いあの大橋である。

 江戸は、夜空までも秋から冬に模様替えを始めていた。
 手先まで冷え込む季節特有の乾ききった風に吹かれ、空の星々がちかちかと瞬く。
 小さな星がきらりと光っているのは分かるが、どうやら、今宵の江戸の空は、天女の羽衣の如き、目には見えない薄い雲で覆われているようだ。
 その雲が、江戸の町に雪を降らす。
 薄い雪雲が生むのは、たいてい粉雪であるが、この日、江戸に降ったのは、牡丹雪だった。
 ただ、積もるほどは振るまい。陽光に照らされれば幻のように溶けてなくなる。
 ああ、過去のいつかの日、彼から真実を知らされた日も、こんな雪が降っていたっけ。
 浜路は藍染まる空を見上げる。東の空に、薄い綿雲が見えた。布の切れ端に似た小さなそれが、この雪を降らせているようには思えなかった。
 それでも、雪は降り続けている。椿の花弁くらいの大きさの雪が、ふらりと舞って浜路の顔に降りかかる。
 器用なことに、雪は浜路の睫へと乗っていった。
 目が冷たい。儚い命の雪であっても、触れれば冷たいに決まっている。
 しかし、提灯を持つ右手は使えない。担いだ鉄砲を支える左手も空いていない。
 浜路は、右目に積もる白雪を、肺にため込め温めた自らの吐息で解かした。
 はあ、と白い息が夜の暗がりの中に浮遊する。
 そうして、睫にかかる牡丹雪がただの水になり、浜路のふっくらとした頬筋を伝って流れていくと、まるで白い牡丹の花が泣いているように見えた。
 少なくとも、彼の目にはそう見えたに違いあるまい。

「……よう、鉄砲娘。
 泣きべそなんてかいて、どうかしたのかい?」

 この声を、聞いたことがある。鼓膜を震わし、胸を、心を震わせた、この声。
 もしかしたら、もう、あいつの声を忘れてしまったかもしれない、忘れてしまうことが怖いと、冥土に漏らしたことがあったが、杞憂だった。
 耳も、胸も、そして心も、全部がちゃんと覚えている。
 白い毛並みの、彼のことを。

「し、信乃……?」

 それは、かつて山を駆け、獲物を狩り暮らしていた鉄砲娘にしては、あまりにも緩慢な動作だった。
 おそるおそる、右方向、富士の山がおわす西へと、浜路は身体ごと振り向けた。
 そして、右手に持つ提灯を高く掲げ、その声を主を明るく照らす。
 巻き付けた鶯色の頭巾の中に、白い髪の一房が見え隠れしている。
 首筋に咲く紅色の牡丹は、鶯の羽根の中に隠されているが、女殺し、とも呼ばれた、切れ長の眼の真ん中の赤い瞳は、はっきりと見える形でそこにあった。
 二年前と変わらずの、鴇色の長着を纏い、身軽にも、欄干の上にしゃがんで見せ、不適な顔を見せつける、その仕草は、信乃そのものである。
 
「久しぶりだな、浜路」

 片手をあげて浜路に声をかけるその様子が、二年前とほとんど変わっていないものだから、浜路は無性に悲しくなる。

「信乃……、ほんとうに、信乃なの?」

 恋しい人が目の前にいる。
 身体が暑い。頭のてっぺんからつま先までを流れる血潮が、沸騰したように感じられる。
 嬉しくないはずがないのだ。だけど、悲しくもある。
 二年前と変わらず、飄々として、たっぷりとした余裕を持つ、信乃。
 まだ、自分が、彼に追いついていないような気がして……。

「おいおい、俺が俺じゃなかったら、誰だっていうんだ?」
「――――ッ、手紙!」

 浜路は無意識に面を伏せる。そして、少女らしい高い声を張り上げた。

「手紙……、どうして返事をくれないの?
 わたし、待ってるんだよ。ずっと、待ってるんだよ」

 その音の響きと口振りに、信乃は目を見開いたが、首を垂れる浜路は気づかない。
 
「それについては悪かった。
 だがな、お前にあんな答えを返されちゃ、手紙なんて書いていられないだろう」

 浜路ははっとして、欄干の上に立つ信乃をふり仰ぐ。
 にやり、と笑う信乃の顔を見て、なぜか背筋に冷たいものが走った。
 会いたい、一緒に暮らしたい、傍にいて欲しいと悲痛に叫んでいた手紙の中の信乃に、浜路はこう返したのだ。
 私も会いたい、今すぐに、飛んで行きたいと。
 兄でも誰でも説き伏せて、会いに行くから、傍に行くから、と。
 信乃からもらった手紙の内容も、自分が返した手紙の内容も、口外していない。
 
「ありがとな、嬉しかった」

 意地の悪そうな笑みを消し、敢えて浜路を目線から外し、照れくさそうに礼を言う信乃の声が、低く鈍く冬の入りの締められた空気を震わせた。
 よっ、というかけ声とともに、信乃は欄干から橋の上へと飛び降りる。
 二、三歩ほど歩いて、空色の紬に身を包んだ浜路の前に立つと、彼女が持つ弓張り提灯を左手で無理矢理に引き取り、残る右手でその身体を抱きしめた。
 女らしさが出てきたとは言え、まだまだ初な乙女である。
 久方ぶりに会う、好き合っている男に抱きしめられて、赤面しないはずがなく、混乱しないはずもない。
 しかし、まだ聞かねばならないことがある。
 細くは見えるが肉の付いた右腕に、身体は捕らえられいても、わずかに残る意識の断片、理性のようなものは捕らえられまいと逃げまどう。
 それらを必死にかき集め、実に辿々しい、子供のような口調で浜路は信乃に尋ねた。

「ね、ねえ、信乃、どうして江戸に来たの?」
「……さっき言ったじゃねえか、あんな返事を貰っちゃあ、返事なんて書いてられねえって」
「それって、どういう」
「手紙が行き来するのなんざ、鈍くてもどかしくって待ってられねえよ。
 だから、迎えに来たんだ」
「は」

 浜路を抱く信乃の右腕に、更に力が加えられる。
 有無など言わせない、と主張するかのように。

「さらいに来た、とも言うか」

 嘯くように信乃は浜路に告げる。
 芝居がかったその口振りは、さすが深川一座の看板役者、と、感服させられるものがあるにはあったけれど、かの人の瞳に宿る光に偽りは見当たらない。

「お前の足じゃあ、こっちに来るまでどんくらいかかるか。
 途中で何があるかも分かったもんじゃないだろう」
「失礼な。
 江戸に来たときだって、そんなにはかからなかったし、それにお山で暮らしていたんだ。大体のことは大丈夫だよ」
「そーんなこと言い出すだろうから、来たんだよ。
 心配するな、ちゃんと準備はしてきた。
 長い道だ、しかし、旅に飽きる前に着くだろうよ」

 信乃は左手に持つ提灯を欄干の上に置き、今度は両腕を使って浜路をより一層力強く抱え込むと、つま先や膝間接をばねにして、橋の上を跳ね飛んだ。

「ちょ、ちょっと、待って!
 まだ兄ちゃんにも船虫さんにも説明してないし!
 冥土にも、言わなくちゃいけないし!」
「おいおい、さっき話したばかりだぜ、聞いてなかったのか。
 浜路、俺はお前をさらいに来たんだぜ。
 ほら、あんまりお喋りすると舌噛むぜ、しっかり掴まってな」

 一足、二足で長い大橋をぽーん、ぽーんと渡りきって見せたと思いきや、今度はたったの一跳びで、平屋の屋根まで跳躍して見せる。しかも、浜路を抱えて、だ。
 兄ちゃんが、船虫さんが、ちっちゃなあの坊やが。
 冥土にも、河原長屋のみんなにも。
 江戸で馴染みとなった面々の名を浜路は呼ぶけれど、信乃は全く聞く耳を持たず、浜路をしっかと抱えて駆け続ける。
 黒の布地を、白い糸で縫いつけるが如く。
 二人が言い合いをしたり、しなかったりしてる間に、浜路の目に見える風景は容赦なくどんどんと変わり、過ぎていってしまって、ついにとうとう、江戸の街並みというものからは遠ざかってしまった。
 今宵の内に、浜路の足だけで、家まで戻れはしないだろう。
 それにーー。

(信乃の身体、あったかいなあ……)

 惚れてしまったがゆえの情けだろうか。
 それとも、この夜が、雪降り、氷も張るほど冷え込んでいるせいか。
 うっとり、と惚けた瞳で、絵巻のようにころころ転がる風景を、眺めているだけの浜路には、今更ながら、信乃の腕の中から抜け出す気などなくなっているのだった。
 この温もりをくれる人。ずっと繋がっていると約束した人。
 また一度、このようにめぐり会ってしまえば、もはや離れてしまうなど考えたくもないことになる。

「……行き道に宿場町はあるの?」
「おうよ、このまま飛ばしていけば、夜明けにゃ着くぜ。
 そこでひとまずは休んでいくつもりだ、だがな、道はまだ長いぞ。
 お前のその足だったら、もっとかかるだろうけど」
「そこで、文を書いてもいい?
 やっぱり、兄ちゃんたちや冥土にも、ちゃんと話さなくちゃ」

 星の御輿に望月が鎮座し、藍色の道をぐるりぐるりと廻る夜。
 雌と猟師と、男の伏が、ともに暮らすことを夢見て、旅を始めた。
 そのことが、お江戸の人たちに知れるのは、もう少し後のこと。
 癖の強い筆致で書かれた文が、各々のところへ届く頃だ。
 ある者は驚き、ある者は嘆き悲しんだけれど、最後には誰もが二人を祝福した。
 だけれども、最初に二人を祝ったのは、でかくてまん丸いお月様だろう。
 この晩、人も町もない寂しい野道を駆けていく二人を、柔らかな月の光は照らし続けていたのであった。
    

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