●掌編集その1

雑記やメモログなどで息抜きに書いた1,000〜3,000字程度の短い話を集めました。
プロットを立てず思いつきで書いています。
書いている人間が雑食なので、書いた話も日常物だったり男女CPだったりBLだったり方向が四方八方で定まっておりません。
目次の注意書きをご覧になってからお読みになっていただければ幸いです。




<目次>
・一日一個の林檎と葡萄酒
(倒れたブルーをライザとアニーが看病する話、CP要素はなし)

・腹が減っては
(ルージュとレッドのご飯食べてる話、CP要素はなし)

・星の道筋
(ブルーとルージュの夜の散歩の話。CP要素はないつもり)

・文明の利器
(ブルーとルージュと情報端末の話。CP要素はたぶんなし)

・塩バニラのアイスクリーム
(少し思い悩むアセルスと助言するルージュの話。
ルーアセ、というよりルージュ←アセルスな話。ルージュの性格は穏やかでまとも寄り)




















一日一個の林檎と葡萄酒



術力が尽き、ついでに体力も失って倒れたのであれば、それは己の力量を見誤ったということであり、
つまりは自業自得のことなので、いくら使命があろうが切望しているものがあろうが、野垂れ死んでも仕方の無いところ、
宿屋に担ぎ込まれて看病をされるあたり、旅の仲間という人種は大概お人好しであるらしい。
それはブルーにとって幸運であることには違いない。
どことなくくたびれたシーツの上に身を起こし、あまり肌触りのよくない寝間着に包まれて、
しばらく寝ていたためか、軽く癖のついた頭髪を整えながら、ブルーはベッドのすぐ脇に座る女の指先を見ていた。
しょりしょりしょり、しょりしょりしょり、と、小人が囁くような音を立てて、リンゴの皮が剥かれていく。
林檎の赤い表皮が剥がれて、果汁をたっぷりとにじませた、人肌よりも白い実があらわれる。
ペティナイフを握る女の手指の皮は厚い。長年体術を嗜んでいるとの話で、男に負けず劣らずの腕力があるが、
同時に器用でもあるようだ。少なくとも、リンゴの皮むきができるくらいには。
いびつな丸が六等分されて、まとわりついていた赤い果皮は今やゴミ箱の中だ。
「はい、どうぞ、食べてちょうだい。
あなたが治らなくちゃ、ウチは立ち行かないことが多いんだから、早く良くなってね」
リンゴの載った小さな皿を押しつけられたので、ブルーは渋々と両手で受け取る。
その様子を見て、どうやら溜飲を下げたらしい。ライザは満足げに、幾度も頷いたのだった。
一方のブルーは、じっと皿を、そしてその上に盛られたリンゴを見つめる。
元は赤かったものだが、今は赤くない。
そして、リンゴの栄養価は高い。甘くて口当たりがいい。病み上がりにはそこそこ適している食べ物だ。
『一日一個のリンゴは医者を遠ざける』とはどこのことわざだっただろうか。
少しだけ眉間に皺を寄せて、ブルーはリンゴを口にする。
一口分を前歯で噛みきり、臼歯でしゃくしゃくと砕いてやれば、酸味の少ない甘い果汁が舌先に頬裏にと広がっていく。
少なくとも安物ではないらしい。一個目を早々に食べ終えて、二個目に手を伸ばす。体力を戻すためとか言い聞かせながら。
「あら、ライザ。ここにいたの」
「どうしたの、アニー」
広くはない室内の出入り口から、また旅仲間の一人が姿をあらわした。
横に座るライザとは知り合いらしいが、委細については知らない(し、ブルーは興味も無い)。
「そこのお兄さんが治ってくれなきゃ出発できないんでしょ?
だから、景気づけに店からくすねてきたのよ」
アニーの右手には、深い緑色のワインボトル。中にはもっと深い……紫色とか黒などに見える液体が揺らめいている。
あれが、透明なグラスに注がれたらどんな色になるか、ブルーは知っている。
つまりは、赤ワインである。
「……あなたが飲みたいだけじゃないの?」
「まあ、ね。たまにはいいでしょ」
赤ワインには抗酸化作用があるとか長生きするとかそういう説が流布しているが、疲労に効くとか聞いたことがない。
そもそも、病み上がりの景気づけに酒を飲むなど言語道断ではないか。
またいつの間にか持たされていたグラスに、赤い液体が注がれていく。
逃げ場がない、わけではないし、ここで何かしらの理由を付けて女二人を追い出すこともできるだろうが、
とりあえず、血とはまた違う色の赤い液体がグラスの中で波打つ様を、眺めていた。
いくら憎く思おうが、この色から逃れられずはずはなく、逃げるつもりもない。


(強制的に看病されてリンゴ(※赤い)を食べさせられるブルーが書きたかった話でした。
 2019.11.18)










腹が減っては


蘇芳、臙脂、それから茜。
深い赤色をした五指の葉がはらはらと舞いながら落ちていく様を、
ルージュは、そして向かいの席に座るレッドも、ただ何も言わないで眺めている。
――口の中にモノを入れて、もぐもぐと味わっている最中なので、当然といえば当然であった。
手に持つ白い包子(パオズ)はしっとりと蒸し上げられいて、まだ湯気を立てている。
そのまま持っていても火傷をするほどではないが、かと言って冷めたものを食べてもおいしくはない。
ルージュは肉まんにかじり付いた。
「お前はいいところの育ちだろうから、そんなの食べないと思っていたけど、案外気に入っているんだな」
「箸の扱い方にはまだ慣れていないんだ」
マジックキングダムはフォークやスプーンといったカトラリーを使用する食文化が根付いている。
そのためか、シュライクや京などで使われている箸にはまだ慣れていない。
京は観光産業で経済が成り立っているリージョンである。
京ならでは、ということで、伝統的な京料理を振る舞う店は多いが、意外に人を選ぶものだ。
ルージュのように箸の使い方に不慣れな者は多いし、あっさりとした味わいの京料理では物足りないという味覚の持ち主もいる。
そのような観光客のニーズにも合わせて、イタメシや中華といった他リージョン由来の料理を出す食堂もまた多い。
ルージュとレッドが今いるのは、そういった類の軽食を出す店である。
向かいのレッドが器用に箸を遣い、ラーメンを啜って食べている様子を何となく微妙な気持ちで一瞥してから、
ルージュはまた一口、肉まんをかじる。
ふんわりとしていて、ある程度の弾力があり、噛みしめればほんのりとした甘さも感じられる白い皮、
それを更に食べ進めて行くと、また別の味と食感が飛び出してくる。
醤油で味付けされた挽肉に、細かく刻まれたネギにタケノコが混ぜられた肉餡だ。
肉汁と旨味をたっぷりと含んでいて、なおかつ肉だけでは出せない歯応えもあり、それが柔らかく仕上げられた皮と絶妙に合っていた。
「そういえばさ、ルージュ」
一頻りで麺を食べ終えて、どんぶりを持ってスープを味わっていたレッドが、声を掛ける。
「俺、次はIRPOに行こうと思ってるんだ」
「ああ、いつだかに話してくれた、『敏腕刑事』に会いに行くんだね」
ルミナスで妙に意気投合してからというものの、一行の中では年が近いということもあり、ルージュはレッドとそれなりによく話をしている。
元々快活な性格らしいレッドは、ルージュが何も言わなくても、よく喋った。
喜怒哀楽がはっきりとしていて、己の感情をそのまま口にするレッドのことを、ルージュは少しだけうらやましいと思っている。
「それもあるけど、俺、秘術の資質を取ろうと思う」
ルージュは目をぱちくりと瞬かせて、向かいのレッドの、名前とは裏腹に青い瞳を見つめた。
そこにはいつになく真剣な光が宿っている。
「身体を鍛えて、技をつけてりゃ、ブラッククロスの奴らをぶちのめせると思ってたけど、
この前、奴らと戦った時に、それだけじゃ勝てないと思った」
ルージュはゆるく頷く。ブラッククロスという組織はこのリージョン界にて暗躍する巨大犯罪組織だ。
ルージュ自身の事情には全く関係ない輩だが、レッドにとっては家族の仇であるらしい。
実際、レッドと行動を共にしているからか、ブラッククロスの構成員と戦闘になったことは幾度かある。
相対した面々の中には、明らかに幹部と思われる異形の者もいたが、そういう時に限ってレッドはどこかで伸びていたのか、姿を現さず、
その代わりなのか何なのか、近頃話題となっているらしいアルカイザーというヒーローが加勢してくれていた。
アルカイザーの技の冴えとレッドのそれとは、明らかな差がある。それは武門には疎いルージュでもよく分かる。
レッドがアルカイザーと同等の実力を付けるならば、武道だけではなく、他の力を求めることも必要だろう。
「君と行ったバカラで金のカードはもう持っているし、
ワカツはワカツ出身の人がいなければそもそもシップが飛ばない。
ヨークランドのことは、僕もまだ調べが足りないんだ。ここのところ、荒事が多かったから。
君の知り合いがいるIRPOに行くのは、悪くないね」
「そうだろ? そうとなったら、善は急げだ。食べ終わったら出発な」
「分かったよ」
ルージュはまた一口と肉まんを齧り、レッドも最後の一滴までスープを飲み干そうとどんぶりを傾ける。
ああ、これでやっと事が進みそうだ。
肉まんを食べ終え、ルージュは胸に手を当てる。
そこには、金貨の描かれたカードと、まだ何の絵柄も浮かび上がっていない白い3枚のカードを忍ばせていた。


(いわゆる赤組、いっぱい食べる君たちが好きなお話でした。
2019.11.24)










星の道筋


灯りのひとつもなく、薄い影がいくつも折り重なって出来た真夜中色の道を、歩いていた。
見上げた空にはあまたの星が、何かしらの合図をしているのか、ちかちかと瞬いている。
彼は星ではなく人間だから、辰星が語らう言葉のことは、何一つ分からない。
だけど、星や太陽が光輝く力の一端を借りて、彼が行く道の先を照らす灯火を作ることはできた。

熱はなく、輪郭もなく、故に曖昧な形の光を先導にして、彼は道なき道を進んでいた。
かつては人が歩き物も運ばれる『道』がここにあったのかもしれない。
そう遠くない昔のこと、彼の記憶にもはっきりと残っているほど近い過去の話、
この地は『街』の形を保っていたが、今となっては何もかも崩れてしまって、
いつ頃から生えてきた草の根の下に埋もれている。
若緑萌ゆる草の根をむしり取って、かつての『国』の姿を取り戻したいのか、
また別の道、異なる何かを目指していくのか、進むべき道はまだ見えない。
天からただ見下ろすだけの星たちは何も言わず、ただ指先を照らす程度の淡い光しか落とさない。

形も分からない影で象られているからか、道かどうかも分からない道を、ブルーはただ歩いていた。
今、そらを見上げれば、こぼれ落ちそうなほどいっぱいの星が、慰めでもしてくれるかのように煌めいているけれど、
彼は自らの術で作りだした灯火だけを見て、歩き続けた。
仮宿にしている家屋を出て、どれくらい経ったのだろうか。
意味も無く、あてもなく、彷徨うように歩き続けるのは、彼のこれまでの人生ではあまりない経験だった。
片割れにそういう趣味があるのかどうか、今のブルーには知る術はない。
ならば、直接聞いてみるのが早いのだろう。
ブルーの一歩先でふわふわと漂っていた灯火が、動きを止める。
そのまた更に一歩先にある影がもぞりと蠢いたのだ。
いくつも重ねられた薄い影のとばりの何枚かがはがれて丸まって、
またぐねぐねと生き物のようにうねってから、人の形へと収束していく。
それは、ふわりと漂う灯火の傍らに立つ彼と、およそ同じ背丈、同じ容貌を象り、最後に塗られた色彩だけは全く異なっていた。
陰から姿を顕したルージュは、ブルーとはまるで違う色で微笑み、声を掛けた。
「やあ」
「ああ」
ごく短く言葉を交わし、二人で肩を並べて歩き出す。
相変わらず、術で作られた灯火は頼りなさそうにふらつきながら、二人が行く道を先に行き、
ルージュの形を作った影の一部が、そろりそろりと後をついて行っている。
「ここのところの夜は、いつも星が綺麗だね」
「星は、いつでも変わらない。ただそこにあるだけだ」
「じゃあ、いつでも綺麗なんだね」
噛み合っているのかそうでないのかも分からない話を続けながら、ブルーとルージュは歩き続けていく。
二人が歩いた後に、光と影の二色で縁取られた道ができていた。


(いい双子の日に書いた話。ふんわりした二人の話のつもりが少しホラーっぽい……。
2019.11.25)









文明の利器


ほのかに光を放つ硬質ガラスに指を滑らせる。
ルーンのような筆記式の術法を発動させている訳ではない……一定の法則に従って手指を動かすという意味では似通っている部分もあるが、これは決して術ではない。
いにしえの時代から伝えられ、人の手により研鑽されてきた魔術体系も、
今の世の中そのものを動かす機械技術も、定められた法則に従い、意思を示すことで動き始めるという点では共通している。それは頭では理解している。
しかし、己にとって未知なるものに触れなければならないとき、人間ヒューマンという生き物はおよそ恐れを抱くものだ。
毎日何かしらのアクシデントに見舞われつつも、心穏やかに過ごしているならば尚更だ。
少なくとも、命のやり取りとは遠い場所にいるのだ。何もかもに満ち足りているとは言いがたいが、さして変わらぬ日々の繰り返しにある程度の充足感は得ている。
(……そこまで大仰な話ではない。
 ただ、俺が、慣れてしまえばいいだけ)
使いこなせば、相当に便利な連絡手段である。
使いこなす自信は、ある。
旅をしていた頃は、必要に迫られればどんなもの
見知らぬ系統の術はもちろん、基礎の術すら発動できないくらい術力が枯渇したときのことを考えて、それまで見たことしかなかった銃を扱い始めた。今では分解しての整備も可能なくらい手に馴染んだ。
その銃も弾切れを起こしてしまえばただの鉄の塊である。同じ金属の塊ならば切れ味のいい方を持っていた方が役には立つ。剣技もある程度までは修めようと思ったのはそのような剣呑な理由からである。
そういった、術法とはある意味対極の位置にある武芸にも手を出して、一定の成果を収めている。だから、最新技術の粋を凝縮した光る板きれなど、怖れるに足らず、のはずであるのだが……。
「たった一行の返信に、いつまで時間を掛けているの?」
「――うるさい、私には考えることが多くあるんだ」
「困ってるならとりあえずスタンプでも何でも押しとけばいいじゃん、まどろっこしいなあ!」
「あいつらが通信の術式を使えないのが悪いんだ」
「そんなの僕らには常識でも世間一般にはまったく通じないんだよ!
 それ以上ご託を並べるなら、また間接めるけど、いい?」
ブルーは短く息を呑んでから、押し黙った。
以前肘の関節を極められて、あまりの痛みに思考を停止してただ悶絶したことを思い出したのである。
ルージュの旅仲間には、体術の達人が複数名いたらしい。魔術王国マジックキングダムの術士らしからぬ鍛えられた筋肉を得て、
そこから繰り出されるプロレス技を中心とした体術の数々は、今のブルーこそを苦しめる(主に無理をしすぎた際の制裁として)。
右の上腕二頭筋にいわゆる力こぶを作り、銀の長い長い髪をなびかせながら微笑むルージュは、思春期の少女のようにふんわりとしていて優しげな笑みを浮かべているが、
その内面はそんなものとは程遠いことを、ブルーはよく知っている。
そして、ブルーからしてみれば大変口惜しいことに、そして意外なことに、機械端末の操作などには滅法強いのだ。
ブルーが現在悪戦苦闘している、リアルタイムでメッセージの交換をするアプリケーションも、ルージュは当たり前に使える。それこそ初等術でも振り回すかのように。
「君がそんなだから、僕まで遅れることになるんじゃん、勘弁してよ」
「元はと言えばお前の準備に手間取ったからだろう、俺は昨晩で終えていたんだ」
「だって、久しぶりにみんなに会えるんだよ。身だしなみには気を遣いたいじゃない」
普段は法衣の着こなしだって適当なのに何を、と言いかけたのだが、ブルーは口をつぐんだ。
櫛を通して何度も撫でつけて、艶も出ている白銀しろがね色の髪の終端が、赤いリボンでまとめられている。
彼なりの精一杯のお洒落、というものなのだろう。
そこを否定する気には、何となくなれなかった。
リージョン界がだいたいの平穏を取り戻して早幾年。
大動乱に巻き込まれた頃の旅仲間とは、何だかんだと縁が切れずに続いている。
その縁の糸を手繰り、あるいは向こう側から引き寄せられたりもして、情報共有という建前のもと、定期的に会いに行っているのだ。
ブルーはいつもの仏頂面で、ルージュもいつもの笑顔で、毎度々々情報交換会に参加しているのだった。
『なぜこの二人のウマがこんなにあっているんだ』という目線、あるいは直接的な問いかけもなくなってきた昨今である。
「――今度からは早めに起きて、早く支度を始めることだな」
この提言が聞き入れられることはないだろうとは、分かっている。
それでも、ブルーは言わずにはいられなかったのだ。


(術はともかく、それ以外の得意分野は微妙に違うよね、という話。ルージュにはプロレス技を使わせたい。
2020.7.14)










塩バニラのアイスクリーム


例えば、ヨークランドというリージョンには、明確な雨季と乾季があるそうなのだが、シュライクにはそれがない。
春と夏の境目に、梅雨という曖昧な時季はある。
種が芽吹いて双葉が開き、青葉が太陽を目指して伸びるものの、大概は雲に隠れて姿すら拝めない。
じっとしていても、そうでなくても、肌という肌が湿っているような感触がある。
しかし汗として流れていくまでにはいかない水分量なので、肌の上にある衣服は張り付いて離れてくれない。
慣れようとも慣れない故郷の気候に辟易をしながら、アセルスは曇天の空の下を歩いている。
背を丸めてのたのたと歩く姿に覇気などなく、敵に立ち向かうときの凛々しく剣を構える姿はどこに行ったのか、さながら猛暑にうなだれて耳を伏せる犬猫のようだ。
ファシナトゥールでの長いようで短い日々ですら、こんなにも無気力になることはなく、それはなぜだろうと回顧すら始める始末なのである。
(今になって思い返せば、ファシナトゥールもじめっとしていたような気はする)
朝と昼と夜が規則正しく巡るシュライクとは異なり、ファシナトゥールは常闇の世界だ。
明けることのない夜を、薔薇を模したランプやムスペルニブルの燃える空の残照がわずかに照らしている。
それで軒や路が見えるくらいの明るさはあるが、風が吹いたり雨が降ったり、という気象の変化を目にしたことは、少なくともアセルスにはなかった。
空気はいつでももったりとした重みがあってぬるく、じめっと湿っていて、どこに行っても赤い薔薇の芳香が漂っていた。陽光がなければ土も水もない場所で、七色の薔薇は狂い咲き、うるさいくらいに己の存在を主張していた。
そういう場所なのに、こんなところにいたくないと思って逃げてきたのに、肌の至る所に触る空気を不快と感じたことはなかったのだ。
否、最初は己の境遇を悲観し、勝手にまとわりついてくる空気すらも、アセルスはいとっていたはずなのだ。
湿気を帯びた薔薇の香気が、日に日にしっとりと、そしてしっかりと、肌に馴染んでいく。
それは、ファシナトゥールというリージョンそのものが放つ妖気を、彼女の身体が受け入れはじめていた、ということであった。
(あのままあそこにいたら、私は本当に妖魔になってしまったかもしれない)
心では筆舌しがたい苦痛を感じていたのに、身体は着実に順応を始めていた。
その事実に今更ながら怖気を覚え、アセルスはぶるりと身を震わせた。
「アセルス? 何をしていたの?」
ふ、と、狭い部屋の湿気のように籠もりきった思考の外から、自らの名を呼ぶ声が聞こえてくる。
いつもいつでも彼女の傍らにいる、たおやかなあの女性ひとではない。
少し前に知り合ったばかりの人だ。彼も旅を始めたばかりで、目的がそれとなく一致したので、今は道を共にしている。
旅をするヒトというのは、大なり小なり何かしらの事情を持っているものだ。
もちろん、アセルスにも他人には話せない秘密を抱えている。
身に余る秘密に慄く自身にも、隔てなく声を掛けてくれる優しいこの人にも、背負っているものがあるはずなのだ。
もしも許されるならば、少しだけでも見てみたい、見せてほしい。
「ごめんね、ルージュ。別に何でもないんだよ」
「どうしてアセルスが謝るの?」
「な、なんとなく……かな……?」
背筋をしゃんと伸ばし、頭を二、三回振って雑念を振り払ってから、声がした方向へと身体ごと向ける。
アセルスよりもずっと長い髪を肩のあたりでひとつにまとめて、ヘアピンで前髪を留めてもいるルージュは、あるいはアセルスよりも女性らしく見えるのかもしれない。
しかし、いつもよりも更に着崩している法衣の下には、しっかりとした胸板の線が確かにあるし、まくり上げた袖から覗く腕の肉は、引き締められて余計なところがあまりない。
(やっぱり男の人なんだな……。そして、術士さん)
大人の男性らしく、背丈があって程よく肉もついている。旅に出るまではまともに剣を持ったことがないといつかに聞いていた。拳を握ったこともないのだという。
荒事が避けられない場面で一体どうするのか、問うよりもまず見てみる方が早かった。
聞いたこともない言葉と右だけの印の組み合わせで、閃光が眼前に弾けて飛んで、そのあとには何も残っていなかった。
初めて魔術の発動を見たときの、文字通りに鮮やかで強烈な体験は、アセルスの瞼の裏に焼き付いている。
それを成したのが、この優しげな男の人なのだと、今でもいまいち結びついていない。
ちぐはぐだから、余計に印象深いのかもしれなかった。
無闇矢鱈むやみやたらに謝ってはいけないよ。
非を認めることは、他人に付けいられる隙にもなりかねない。
いつもの強気な君の顔なら、そんなことにはならないと思う」
「――――分かったわ」
(………………分かってない)
シュライクは、京ほどではないが、俗に言われる『和風』の文化や価値観が根付いているリージョンである。謙虚は美徳であり、互いに譲り合うことも良しとされる。
そういうところで育ったアセルスも、気の強い性格と誰からも評されながらも、張り合う必要のない場面では譲歩することも多い。
……それが交渉事では不利に働くことは、もちろん知っている。
「よし、いい子にはご褒美をあげよう。アセルス、口を開けて」
「?」
言われるがままに口を開くと、視界の端から銀の匙と、その上に乗る白い何かが映った。
あ、とか、え、などと思う間もなく、逡巡する暇も与えられず、白いものが口の中に放り込まれる。
とても冷たい何かが、熱く湿った舌の上で溶けて、じわじわと形を失っていく。
まず塩気が飛び込んできて、味蕾や脳が一頻り混乱してから、いつもよりも際立つ甘味、そしてバニラの淡くて甘い香りが広がっていく。
予想していた味とは、少し違う。
「バニラアイスに塩を足したんだって。面白い組み合わせだよね。
 後味もさっぱりしていて、僕でも食べやすいな」
「そうだね、白薔薇にも食べさせてあげたいな、びっくりさせたい」
しょっぱくて、いい香りがして、最後にはとても甘い。
何かに似ている、誰かに似ている。
それがいったい何なのか、どこに行き着くものなのか、あえて結びつけることもないだろう。
アセルスは顔をほころばせながら、もう一口だけ、と塩バニラのアイスクリームをねだった。



(たまに無性にルーアセが書きたくなる。アセルス様はシュライク育ちなので、
案外日本的なる価値観を持っているのかも?という想像をした話でした。
2020.7.16)






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