冷たいカフェ・オーレ

 夜闇と虹色のネオンの街、クーロン。
 人は思惑を持って行き交い、獣は思いのままに騒ぎ、機械は演算を繰り返し、そして妖魔は陰に忍ぶ。
 シップ発着場に直結している繁華街は、今日も変わらずの盛況だ。土と石、血と骨、金と情報、そして一瞬を延々と重ねてきた街だが、案外と不安定な均衡の上にあることを知る者は少ない。
 雑に重ねた本の塔は崩れる、雪崩のように、地滑りのように。そして、二度と同じ形には戻ることはない。
 人や獣、それから機械が織りなす営みがどうなろうと、彼自身はあまり興味がなかった。
 この世をどんな者が治めても、どんな形に変わろうとも、妖魔である彼には関係の無いことだからだ。それも、格の低い者たちや、下手すると他の種族さえもただ思考するだけで滅せられる上級妖魔である。遠く仄明るい星に棲まう「妖魔の君」の機嫌を損ねるならばまだしも、人間如きがふんぞり返って世を支配しようと、せせら笑いながら躱していける、どころか息の根を止めることができる。
 それだけの力を持つ彼が危惧しているのは、この街の天秤がどちらかに傾ききって、倒れて壊れてしまうことではなく、その皿の上に載せられた愚か者たち、彼らの身体に巣食う物病みと出会えなくなってしまうことである。
 免疫力の低下により表に出る風邪ふうじゃ、倒錯した淫行の末に脳髄まで侵す梅毒、不摂生もしくは心労を糧として膨れあがる腫瘍、これらは彼にしてみればごく身近な存在もの
 欲を詰め込んだ贓物と、愉楽の色に染まって戻らない脳幹を、初めて切り開いた時のような。人間の赤い血に塗れ、縮れて捻れて、もはや教書にはないような形となった“何か”を見た時のときめき、それらから放たれる腐臭を嗅いだときの高揚感。そして、切り取った“何か”を手に取って、その柔らかさと残る温もりに触れて満たされた、医者としての知的好奇心と、妖魔としての欲深。
 彼が、世にも奇異な妖魔医師たるヌサカーンが、初めて充足感を感じたのはその時である。故に、彼はこだわり続ける、偏執を続ける、妄執をも抱く。自らを満たす百様玲瓏の病魔たちと、それを無意識に、あるいは意識的に宿す人間の存在に。

***

 意外と、そう、この病院の姿態からは考えられないくらいに整えられた本棚に、手を伸ばす。
 その腕は長く、肉付きは薄い。何枚か重ねた衣類の上に籠手まで着けたその腕は見た目にも重たそうだが、細い中指で引き出した本と、腕自身を支えるだけの力はあるようだった。
 とは言え、布張りの本は重い。変色の少ない上質な洋紙が何百枚も綴じられているならば尚更だ。中指で引き出し、てのひらで支え、そして前腕、上腕、胸部で受け取ったその書物は、彼にとってはとてもつまらないものだった。
 だけど、ここでは他にやることもない。
 術の修練をするには手狭だし、各系統の理論を反復するには落ち着かない。普段の彼であれば、いかなる場所であれ、術の錬磨に励むことができる。だが、この場所は別のようだった。
(他人の居場所は落ち着かない)
 ここはクーロンの裏通り、ヌサカーンの個人医院である。
 保護のルーン、活力のルーン、そして勝利のルーンを手に入れて、残るは解放のルーン。それを手中にできれば印術の資質を得られるのだが、その情報は全くといっていいほど得られていなかった。
 情報収集といえばまずクーロンである、そう真っ先に思いつくくらいに物流と情報の集積地としては名高い。治安に関しての評判は地の底なのだが。
 共に旅する連れ合いたちは、必ずしも彼に善意だけで協力している訳ではなく、それぞれに目的や思惑がある。クーンやメイレンは各地に散らばる指輪を集めるため、ライザやルーファスに関してはそれぞれ別の時期に同行したのだが、どうやら知己ちきらしい。そして、一番訳の分からない輩の居場所に、ブルーは身を寄せていた。
 指輪を求める二人はその情報を集めるために街へ繰り出し、なぜか知り合いだった二人は繁華街に居所があるらしく、そこへ行ってしまった。
 それぞれの用事を済ませたら、この医院にまた集まる手はずになっている。
 情報収集の必要はあるが、他に行く場所のないブルーは、いかにも怪しげな(妖魔が医者などという酔狂をしているのだから、そう思うのは当たり前である)妖魔の誘いを断り切ることもできず、このいかにもかび臭そうななりで、実際には医院らしい清潔さの保たれていて、陰気の中に妖力が滲むヌサカーンの城までやってきてしまったのである。

***

「おや、君がそんなものを読むとは思わなかった」
 やたら厚く、相応に重く、湿気を吸い込み、細かな埃の乗ったその本をページを繰っていると、背後から革靴の足音と、まず低く響いて、薬のような苦みがあるが、どことなく甘さも含んだハイバリトンの声が、半ば傾注していたブルーを現実へと引き戻す。
「……他に読むものもないからな」
「それは当たり前だろう、曲がりなりにも、ここは医院なのだからな」
 曲がっているどころか屈折している、という言葉をブルーは錠剤のように喉奥に押し込む。ヌサカーンが堪えきれないように、くくく、と声を上げて笑う。それが嘲笑のようにも聞こえたので、ブルーは腹立たしさを覚えたが、表情には出さない。慣れ親しんだ無表情をぴったりと貼り付けて、不満を吐き出す。
「どこもかしこも、こんな医学書ばかりで飽きないのか」
「君はゴシップ誌の方がお好みかね。それならば、今度取り揃えておこうか」
「そういうことじゃない」
 ブルーがここに来ることを断らなかった理由なんて、一つしか無い。
 術に関する何かしらの情報が得られると思ったからだ。
 こんなどぶのような街で、人間に紛れて生きているが、相手は妖魔である、それもかなりの上位存在。そして、妖魔と言えば、妖術だ。
 ブルー自身、もちろん妖術の資質を得ることは出来ない。それはヒューマンとして生まれたからには当然の摂理であるし、彼もそれを望んだことは一度もない。魔術の資質を持って生まれたことは、どんなものにも換えることはできない、彼の誇りである。
 しかし、妖術の知識だけでも得れば、今後何かしらの役に立つ。その確信があったからこそ、彼はこんな辺鄙で訝しい場所に来たのだ。成果は全くなく、肩透かしに終わりそうだけれど。
王国キングダムの術士と魔術が不可分なように。
 妖魔と妖術もまた分かつことができないものだし、扱い方を何かに書き残したりはしない。
 そうだね、喩えるならば、君たちが手足を動かすのと同じくらい、当然のことだ」
 ブルーは僅かに眉をひそめた。まだ侮辱されたような気がして、不快に思ったからだ。
 そんな表情の変化は、まだ彼の背中ばかり見ているヌサカーンには視えていない。だが、感情の揺らぎは静止した空気を微かに揺らしたので、このまだ若い青年の不愉快な感情を感じ取ることはできた。
 人の世に名を馳せ、妖魔には冷笑されている魔術王国の青年。
(それこそ、あの国そのものが病巣のもののようだ)
 妖魔の時は永遠と近似している。ヌサカーンもまた人間の数倍、あるいはそれ以上の時を生きてきた。その中で、魔術王国の者と接触する機会は数え切れないほどあったし(大半はあちら側からであったが)、それこそ「双子」なる存在と接点を持つこともあった。
 彼らは、ほぼ例外なく美しい顔立ちをしていて、魔術を初めとした術の洗練に与えられた命の半分を費やし、残りの半分で仕組まれた対決に向かう。半分になったそれぞれがひとつに戻り、元通りになったところで、あの王国の歯車に組み込まれる。これまでにひとつとして例外はない。そのように設計された双子だったからである。
 あの国に「本当の双子」が生まれたという噂は、人の世には流れなかったけれど、妖魔の世にはひっそりと伝えられた。まことしやかに、尾鰭背鰭をつけて、時に嘘も交えて、煙のように香りのように形を変えて伝わり、クーロンに住むヌサカーンも知るところとなった。
 初めて、ブルーを見たときのことは、よく覚えている。大して古い記憶でも無い。
 本当の双子だというのに、明らかな人間だというのに、造り出された双子と何ら変わらぬその表情にヌサカーンは失望した。いつもと毛色が異なるのだから、何か違いがあってもいいのに。顔や形が設計図通りならば、五臓六腑も同じ形か、開いて確かめてみたい、その時の悲鳴の聞き応えくらいはあるだろうから、それを慰めにしよう。そう思ってから、はたと気づく。
 この青年は、あの王国の歪みそのものなのだと。
 女のはらから生まれた本当の双子、正確な年数など知るところではないが、下手すれば百年以上も出現しなかった天然物。それを、養殖物と同じように仕立て上げた。出来の悪い戯曲のようだ。せっかくの好機をふいにした。ホルマリン漬けの標本にでもすれば、あるいはあの国の奥に押し込んでいる存在への突破口が開けるかもしれないのに、その余裕もないらしい。
 クーロンが崩れる前に、人の世が終わるのかもしれない。
 ――それを間近で観察するのも、悪くはない。
 もはや逃れられぬ絶望の中で、人間がどのようにあがき、そして最後にはどんな嘆くのか、目の前で立つ無表情なこの青年も、もはや瓦礫になりゆく故郷を目の前にして、苦悶の呻きを上げるのか……、とても、興味をそそられた。
(だが、それは本当に最期の楽しみだ)
 わざと後ろから近付いて、微細な空気の流れを読み取り、飴細工のように整った顔(かんばせ)がどのようにひしゃげているのか、それを想像する遊びも楽しい。
 しかし、最近のヌサカーンが凝っているのは、また違う戯れである。
 机の上に医学書を広げ、再び読み耽るブルーの正面まで歩いて行く。
 まだ邪魔をする気か、とでも言いたげな彼の目の前に、ヌサカーンはマグカップをひとつ置いた。
「…………毒か」
「まさか、仮にも医者が毒などは出さない。
 意外に集中しているようだから、それの助けになるかと思ってね」
 置かれた白いマグカップを、ブルーは手に取る。手のひらと5本の指に、ひんやりとした冷たい感覚が伝わる。両手で包み込むように持って、匂いを嗅いでみる。焙煎された珈琲豆の香り、それに混じって懐かしいような乳の匂いがした。
 コーヒーのカフェインは集中力を高める効果があるし、牛乳には身体や精神までも安らげる効能がある。術ばかり学んできたが、それくらいはブルーも知っていた。そして、これらは確かに気楽な読書にはぴったりである。
 眼前に立つヌサカーンを、ブルーは睨み付けるような、あるいは眠たげなような……いわゆる半眼で見やった。
「別に、礼は言わない」
「分かってる、礼を言われたくてしたことじゃない」
「お前は、変な妖魔だな」
「まあ、同族からも変わり者だとは言われているが、妖魔であることにも変わりないな」
 無表情を貼り付けたていのこの青年の、表情を崩すのが面白いのだ。
 それがこの最近のヌサカーンの愉しみなのだが、それがいつまで続くかは分からない。
 魔法王国の歪みそのものの青年の、最期はどんな苦痛に塗れているのか、どこまでもひしゃげたその顔をしっかりと焼き付けてから、脳髄は溶液に漬け込んで反応を堪能し、臓腑を切り開いて隅々までも調べてみるのが、今後の大きな大きな楽しみなのだから。
    
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