熾火の下の種は芽吹くか

 面白くもない白地の壁が、これまた面白味のない黄金比の長方形に切り取られていて、そこから明るい空色が部屋の中を覗いていた。
 それが、まるで、あいつ・・・の目線そのものに見えて、胸にどうとも言い表せられない何かが渦巻いていく。
(それこそ、本当につまらない思いつきなんじゃないかな)
 先ほど給仕が持ってきたばかりの、まだ湯気が立ち上るカップを手に取り、茶を一口分啜る。トリニティは僕らのことを一応は重客と見なしているらしい。普段口にしているものより数段上の茶の香りに少し胸がすいて、僕は背もたれに我が身を任せた。
 そんな僕の仕草を、あいつはじっと見ていたらしい。
 空よりは深く、海よりは淡い青の双眼が、僕をまるごと映していたことは確かなことみたいだった。
 ほんの少しでも行儀の悪いなりを見せると、眉をひそめ、わざとらしくため息をつき、小言を漏らすのが、彼の習性のようなもの。
 少なくとも、故郷で子どもたちの世話をしている時はそうだ。
 だけど、少しは……いや、故郷のこれからを思えば、猫でも被らなくちゃならない一大事の場面を前にしているのに、彼は、ゆったりとくつろいでいる。
 出された紅茶を何の疑いもないように口に含み、鞄に忍ばせていた本を手に取った。かつて、と言えるほど遠い過去のことでもないけれど、あの事件、という短い言葉で片付けてしまうのはかなり乱暴だ。とにかく、僕たちの在り方・・・、そして生き方を変えてしまった例の件以降、ブルーは魔道書や教本のたぐいはあまり手にしなくなった。――今や、この世界リージョン界で生きる誰よりも術法には長じている彼に、そもそも不要なものだろう。それでも、何度も繰り返し読んできた文字の連なりに縋りたくなるときはある。旅をしていた頃の僕がそうであったように。そして、今、蜃気楼のように不確かなしるべを頼りに進んでいる彼こそ、もはや意味の失われた文字列にでも縋りつきたくなるものだろう。
(だけど、あいつはそうしなかった)
 裸足で瓦礫を踏みしめて、まだ肌を焦がす熱をはらんだ地面にひざまずき、灰燼に種を埋めていく、手や指から滴り落ちる血潮を水の代わりにして。
 一度は焼け死んだ土に、一粒ずつ種を蒔いて、いつかはかつてのように千にも万にも花開くことを期待する作業。
 ブルーが選んだのは、先の見通しなどなく、報われる保証なんてものもない苦行だった。
 何もかもすべて、すっかり元通りにはならないことなど、誰の目にも明らかなのに。
(それは、ブルーにも分かっているはずなんだ)
 『最強の術士』などという仰々しくはあっても有り難みのない王冠称号を押しつけられ、『双子』という良い出来映えの道具を作るだけ作って、これまで胡座あぐらを掻いてきた老人たちに、千々に砕けて形を失った故郷くにそのものを背負わされる。
 内心で思うことは積もり積もって腐るほどあるだろうに、僕が知っている限りの数ヶ月の間、ブルーは愚痴のひとつもこぼさず、生真面目そのものの表情かおをして働いている。
 だけど、僕は知っている。
 生真面目というよりは、ほとんど表情を動かさないで、淡々と仕事を進めていくブルーが、道なき道を前にして途方に暮れていることを。
 僕には、分かってしまう。
 それは、仲間とともにあちこちのリージョンを巡っていたときの僕に似ているような気がした。
 間近に迫る運命が待ち遠しくて、だけれど直視もしたくなくて、生ぬるく微笑んでやり過ごしていた頃の僕と、今のブルーはよく似ていた。
 僕らは今でも、泣きわめいたところで差し伸べられる手のない、子どものままだった。


◇◆◇


 ブルーが取り出した本には、よく見覚えがあった。
 最近、その本を手にしているブルーをそれなりに見かけていたし、それよりもずっと前に、僕も読んだことのある物語・・だからだ。
 多くの人の手に渡ったからか、手垢で古ぼけた装丁を、僕はじっと横目で眺めてみる。
 ブルーは僕のことに気づいているのか、気づかない振りをしているのか、名前の意味合い通りの涼しい顔で、その本に目を通していた。
 半壊した図書館から拾ってきたというそれは、子どもが好んで読む冒険譚だ。
 手も足も伸びきった大人のくせに、今では学院の校長なんていう立場のくせに、なんだかとても楽しげに文章を目と指で追うブルーがおかしくて。
 なぜだか、とても、腹が立った。
 僕は立ち上がって、ゆったりと椅子に腰掛けているブルーの目の前に立つ。
 彼が左手で持っていた本を、右手でつかんで、そのまま真上に引き上げた。
 そうすると、ブルーの目線は自然と上向いて、青い瞳を覗けられるようになる。
 薄い水の膜が張られた青は、微風を受けて細波さざなみ立つ。
 輪郭、耳、鼻筋、唇、どれも僕とほとんど同じ形をしているのに、瞳の色だけはまるで違っていて、それは生まれたその時から変わらないはずのことなのだけど、とてもおかしいような気がした。
 ブルーが、僕を見ている。
 訝しげな顔ではあったけれど、奪い取られた本じゃなくて、僕を見てくれているのが、すごく、嬉しかった。
「こんな本を読んでいて、君も楽しいって思うものなの?」
「俺よりも早く『そんな本』を読破してきたお前がそれを言うのか」
「僕が子どもの頃の話じゃないか」
「……これまでに聞いてきた話からも思っていたが。
 ルージュ、お前は、少なくとも、初等部まではあまり真面目ではなかったようだな?」
「君とは違う人間だからね、ブルー。
 でも、たかだかこんな本一冊で人のことが推し量れるほど、君は賢いのかい?」
 幼くともまっすぐに伸びた髪を結い上げて、娯楽には目もくれずに術の知識を詰め込む子どもの頃のブルーを、簡単に思い浮かべることができる。
 実際に、彼はとても賢いのだろうと思う。そうでなければ、僕は今ここにはいない。
 ただ、少し、余裕がなかっただけなのだ。
 たとえ話や過去にまつわる思考実験なんて、意味がないけれど、もしも彼に優しい物語のひとつやふたつを読み聞かせる誰かがいたのならば、僕らの物語は少し変わっていたのだろうか?
 そんな、考えたところで仕方のない、だけど、想像するだけで楽しいと思えるような光景が次々と脳裏に浮かんで、目の前の風景が遠ざかっていることに気づく。ぎくり、とした心地で視点を現実へと引き戻すと、こちらもしばし考え込んでいたのか、よく磨かれて艶のある石の床まで視線を落とし、眉間に皺を寄せるブルーがいた。
「…………前から言ってるけれどさ。
 些細なことにあんまり考え込むの、やめなよ。
 皺がとれなくなって子どもたちが怖がるだろう?」
「……いや、何もかもお前の言うとおりだと思って」
 おや。
 僕は彼から取り上げた本をテーブルに置いて、そこに立ったまま、椅子に座って目を伏せるブルーの言葉に耳を傾ける。
「学院を修了し、旅に出てからしばらく、私は何でもこなせる方だと考えていた。
 資質を手にして、術を磨き、それからお前を殺して王国キングダムに戻ることなど……易々とはいかないだろうが、越えて行くのが当然の道だと思っていた」
 随分と傲慢な発言だ。けれど、それを裏打ちするほどの努力を重ねてきたことを、僕は知っている。
「実際は、何もかも異なっていた。まず、旅というものが一筋縄では行かない。学んできた術は強力な攻撃手段だとは分かったが、発動までにはどうしても時間がかかる。徒党を組んで攻め込まれたら一溜まりもない。だから、面倒だが旅の道連れを得なければならなかった。
 それからも、思い通りには全くならなかったな。資質を得るための道筋が厄介だった」
「酔った上で沼地に足を取られて絶体絶命になったりとか?」
「ああ、シップを飲み込むほど巨大な生物の体内で延々とさまよったりとかな」
 ふふ、と、区別の付かない声色で、どちらともなく笑い合う。
「少ない情報から推測を進めて決め込んでしまうのは、我ながら悪い癖だと実感をしているところだ」
「そうだね、僕たちはもう、生き急ぐ必要はないんだ。
 むしろ、王国キングダムの復興は長丁場になるだろうし、身体とかにも気をつけていかなくちゃね」
 ブルーがふわり、と柔らかな笑みを浮かべる。
 僕も同じ微笑みを彼に返しているのだろうか?
 結局、僕らは似たもの同士でしかないんだけれど、今は・・別個として存在をしている。
 かつて、というほど遠くはなく、この先だって絶対に忘れることもないあの記憶、二つが一つに混じり合い、境界というものがなかったあの時、僕はブルーの記憶に、その生き様にじっくりと見入った。そしてブルーも、それまでの僕が生きてきた道をじっと見つめていたはずだ。
 夢のように形に捕らわれることなく、夢よりもずっと近いところにあり、だけど今はずっと遠い場所にあるような、あくまで現実に在った経験だった。
 その経験があるから、余計に分かってしまう。
 互いが互いに、何を感じて、何を思い、どのように考えて、どの選択肢を選ぶのかが、手に取るよりも容易く分かってしまうのだ。
(万事が万事、それではつまらないな……)
 だから、こんな提案をしたのは、ただの気まぐれに過ぎない。
 これまでの僕らであれば、考えつきもしない着想アイデアに、彼は何を思うのだろうか。
 くだらない、と唾棄される公算の方が高いけれども、突拍子もないことを耳にした時の表情を、よく見てみたかった。
 「ねえ、ブルー。キスでもしてみようか?」
 薄く、まだどんな色も付いていない唇に触れてみたいと思ったことも、事実だ。
 どんな味がするのだろうか、と想像するだけで、楽しくなる。
 ちょっとした悪戯心いたずらごころだったのだ。
 腰を屈めて、椅子に座ったままのブルーの顔を覗くと、青い双眼とぴったり目線が重なる。
 ほとんど予想通りの表情だ。何を言っているのか分からない、理解ができないと、冷ややかな相貌かおに書いてある。……けれど、二つの瞳その奥には、青ではない別の色が混じっているように、僕には見えた。
 ――拒絶は、していない、されていない。
 そう、自分に都合良く解釈した僕は、何か言葉を紡ごうとして、結局それができないでいる口に己のそれを近づける。
 唇よりもまず先に、互いの息が重なった。
 薄荷ハッカの清涼な香りが鼻をくすぐる。
 コンコン、と知らない誰かが扉をノックする音が後ろから聞こえたけれど、構うことなく、薄荷の吐息ごとそれ・・を奪う。
 一瞬だけ、ひやりとした感覚があった。
 それから、生きて血が流れていることそのものの体温が、触れている部分から伝わってきた。
 重なったところからは、花のような、もしくは、蜜のような味がした。
 甘い毒のようだ、と僕は思った。     
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