韋編三絶いへんさんぜつ

 知らないうちに浮き出た汗が、いまいち肉付きの薄い輪郭の線をなぞってから、机の上に落ちた。
 シンロウは言わば常夏のリージョン、それも高温多湿。夏場にはやや似た気候となるシュライクや京の出身ならばともかくとして、比較的に冷涼で空気も乾いたマジックキングダムの生まれであるならば、身体を慣らすことから始めなければならない。
 術の資質そのものの、あるいはそれに繋がる手がかりを求めて、はるばるこの地へと赴いたブルーではあったのだが、予想外の足止めを食らい、当惑しつつ、この環境に適応しきれぬ身体をベッドに横たえて一日目を過ごした。
 この地にも太陽が昇ることをしかと認めた二日目の朝、己の身は未だ倦怠感を示している。その日の探索は早々に諦め、旅の道連れたちにそれを伝えてから、石造りの宿の一室にただ一人、籠もることにしたのだ。
 旅仲間という存在モノは、なかなかに使える・・・と彼は旅の当初にあった認識を改めているところである。
 皆それぞれに背負う事情は異なる。何も善意だけでブルーの旅に同行している訳ではないし、そもそも彼の側にだって芳志や親切心などという感情があったものではない。しかし、他人ひとの厚意に気づく程度の心はあった。それを敢えて無視したり、逆に、今回のように利用してやろうという狡猾な部分は確かにあった。
 まだ覚醒しきっていない身体をひきずり、今朝の朝食の時分には食堂へと顔を出し、コップ一杯の水と食パン一枚、それから、道連れたちが昨日の探索で得た情報を手にして、ブルーはまた、涼しさと湿り気が同居する部屋へと戻ってきたのである。波打つ寝具には己の体温が残っており、そこに倒れ込んで上書きをしつつ、見えない夢を見て一時いっときほど。
 彼が再び目覚めた頃には、もう朝とは言い難く、だが真昼とも言い切れない時刻であった。
 朝食の折りに、道連れたちには探索には明日から合流する旨を伝えている。まだ身体がシンロウに慣らされてはいないということもあり、それを理由としていたが、実際のところ、これまでの旅路で得た情報の整理が必要だったのである。
 睡眠を多く摂りすぎたせいもあるだろう、未だ気怠い身体を起こして、ブルーは机へと向かう。その途中でよろけて、なぜだかモヤシや豆苗スプラウトにたとえられたことを思い出した。
 バックパックから何冊かの本とノートを取り出し、机上へと広げる。
 幾ばくかの時間を吸い込んで、褐色がにじみ始めた本をまず手に取った。旅に出るときに故国から持ってきたものの一冊で、魔術の技法書だ。修士課程で学ぶ術の知識を網羅し、実践の方法や応用までを体系的に記されてあり、王国キングダムでは名著とされている。
 葦編三絶いへんさんぜつという、此方シンロウでもなく彼方キングダムでもない国のことわざを、ブルーは知らないし、知る由もない。
 決して薄くはないその書物の一字一句を暗誦できる段階レベルまで読み込んでおり、また、旅の中では術を使う機会には恵まれていたので(行く先を阻む者との戦闘から野宿での火興し、時には意に添わぬ人助けなど、その用途は様々であった)、実のところ、ブルーが操る術というのは、かなりの高水準でまとまっていた。それこそ、葦編三絶ということわざの意味を飛び越えて、熟達していると言ってもいいほどだ。
 それは、くだんの技法書を読み直すどころか、所持していることさえも意味のないことを示している。
 無論、その事実ことをブルーは気づいている。己の手垢もこびりついているであろうその書物を棄てれば、肩や背中にも圧しかかる旅の荷物の重量が少しでも軽くなり、より効率的に物事を進めやすくなる。そのことだって承知している。
 しかし、その書をブルーが棄てることはなかった。
 こうして今日も、図表も文章もまるまる飲み込んだ本の活字を目線で辿り、そこにある言葉の意味を噛みしめている。
(術は一昼夜では成らぬもの、しかし、矢鱈に時だけ重ねても成らぬもの、日々の研鑽を積んでこそ……)
 術は精神の力なのだという。魔術の総本山であるマジックキングダムはそれを科学として証明しており、他の領域リージョンが発祥の術も同様というのが通説だ。妖魔がほとんど例外なく妖術の使い手たりえるのは、彼らが人間ヒューマンには理解ができないし、機械メカも解析が不可能なほどの錯節とした精神構造をしているからというのが通説である。
(――キングダムは、外の領域リージョンや種族が使う術についても、当然、把握している……)
 足止めを食らうことも時折あるが、彼の旅は順調に進んでいた。
 陰陽の系統のうち、陽術の資質は早々に手にすることができたし、ドゥヴァンで渡された四枚のカードは、既に二枚がアルカナ・タローへと変じていた。
 ここに来て、ひとつの疑問が浮かび上がっている。
 それに対する答えも、想定はできていた。
(俺のように双子ではなくても、実力のある術士には外遊を認めているしキングダムの研究対象は魔術だけではない。当然、外の領域リージョンにある術の資質の修得方法を把握しているはずだ)
 王国キングダムで学んだのは、術の力そのものを知覚できるようになる術(すべ)と、魔術の知識や発動方法といったものが主で、外の領域リージョンに由来する術に関しては、概論として掻い摘んでの説明しか受けていない。学院附属の図書館にも、どのような術が確認されているか程度の資料しかなく、術の発動に至るまでの情報はなかった。
(それがおかしなことだと、あの頃は気づかなかった。
 何故か。疑問にも、思わなかったからだ)
 自らを『魔術の王国』と標榜し、事実、術の研究においては右に出るものはなく、ことわけ、術や資質といったものを対象とした条約・条項ではトリニティに正式加盟しているどのリージョンよりも強い権限を持っている。それほどに術に対しての触角アンテナが鋭敏なマジックキングダムが、他の領域の術にはほとんど全く手を着けないなど、あり得ることだろうか。
(答えは否だ。……まだ一介の術士に過ぎない俺でもたどり着く結論に、キングダムが気づかないはずがない)
 例えば、とある術の資質を得るための手法が確立されていたとして、それをキングダムが全く知りもしないとは、どうしても考えられないのだ。
 ブルーは開いていた技法書を閉じた。ほとんど音もなく閉じられたそれの表紙をひと撫でしてから、また別の本を開く。先ほどとは打って変わって、つるつるとした触り心地の撥水加工の紙に、鮮やかなインクがいくつも載せられて、一目ひとめだけでは処理しきれないほどの単語がところ狭しと踊る雑誌である。
 ――要は旅行ガイドだ。一言で言ってしまえば、けばけばしい・・・・・・表紙は彼の趣向では決してなく、ポケットサイズ持ち運びに便利で可能な限りの情報量を求めた結果であった。
 それなりの厚みはある本のページを次々と繰って、骨張った白い指は、シンロウについて記された箇所でぴたりと止まる。
 トリニティ加盟国で航路は安定して確保されており、文明レベルは中程度。昨今の世界情勢にしては珍しく、未だに王政を敷いている国のひとつであり、王朝は古代遺跡の保全に力を入れている。最近になって新たな遺跡が発見され、考古学者も、そして冒険者ならずものも胸を躍らせているところである……というのが、特集ページの要旨だ。
 彼からしてみれば、そのほとんどに興味がなく、九割方は記憶する価値もない情報である。
(シンロウの遺跡に、秘術の手がかりはある可能性は、捨てきれないか……?)
 しかし、残りの一割には検討に値する情報が含まれていることもある。
 ガイドブックにも記載されていた通り、シンロウには数多くの遺跡が存在している。深緑の熱帯雨林に白だったり灰色だったりの遺跡が散らばって出来ているようなリージョンで、国としての歴史はかなり長いものの、各地にある遺跡の全容はまだまだ明らかにはなっていないのである。
(遺跡そのものに関しての知識ならば、この国にも相当の蓄積があるだろう。だが、もしそこに術的な処置がなされた扉か何かでもあるとすれば?
 この国の者だけで、開けることは不可能だろう)
 どこぞで燻ぶる煙はあるものの、現在は概ね平穏を保っているリージョン界だが、ほんの数十年前までは、あらゆる国同士が我こそに大義ありと覇を競っていた。有史以前には今よりも遙かに高度な文明を持つ者たちが巨大な戦艦を駆って争っていたとのことであるが、それはブルーの興味の外にある。
 争覇の時代には国の興亡があり、また文化や技術も入り交じっていたはずだ。シンロウに限らず、リージョン界のあちこちには古代文明の遺物がごろりと転がっているが、その大半は戦艦に代表される機械的なものである、とされている。ほかのリージョンには、工学的なアプローチからでしか解析が進められない。だから、術的な措置がされた何某なにがしかが発見されても、そとの人間にはがらくたとして放置されている……というのが、ブルーの推論である。
(いずれにしても、この目で確かめないことには、どうにもならんな)
 ブルーは左腕で右の肩を軽く揉んだ。男性にしては狭い肩や細い首筋に、凝りがなければ筋張っている様子もない。体調はそう悪くはないのだ。ただ、この茹だるような暑さに慣れきってはいないだけ。
 濡れたような触感のある象牙色の石をくり抜いてしつらえられた窓を見やる。ビリジアンにターコイズ、オリーブにシトロン、あらゆる碧緑だけに充たされた、一見しただけでは単調な景色を凝らして見てみると、みどりみどりの間で蠢く別の色彩があるのが分かる。 それが一体何であるかを、ブルーは知っていた。
(…………さて)
 扉の外に、それなりによく見知った気配が佇んでいることが感じ取れた。
 格別に親しい訳ではない。そもそも彼の旅路に、親友とか知己といったたぐいのものを作る目的はない。ただ、互いに利害が一致している者同士、ある程度の時間を共有すれば、興味はなくても顔くらいは覚えてしまうものだし、相手の癖なども見えてくるものだ。豊かな髪をことあるごとにかき上げるだとか、緊張が解けると煙草シガレットに手が伸びるところとか、そもそも四六始終酒浸りであるなどは、彼の両目に幾度となく映された日常の光景である。
 そして、目でははっきりと捉えられずとも、色形いろかたちの境界線が曖昧であろうと、ブルーには分かる・・・感覚もある。
(これは、奴か)
 かの人は、かつてほんの一時期のことであるが、術の修行をしたことがあるのだという。そのせいか、魔力の錬成については一般人よりかは上である。魔法王国出身のブルーとは比べるべくもないが、その代わり銃などの扱いには長けていて、加えて警官としての勘の鋭さ、常日頃から命のやり取りをし、これまでちゃんと生き延びている土壇場での勝負強さなどと合わさると、特に戦闘時にはかなり腕の立つ同行者ということになるのだ。
 しかし、決して几帳面ではないし、割と突き放した言動が多いことから面倒見もよくないであろう彼が、なぜこの部屋の前まで来たのだろうか。
 ブルーは開いていた本を閉じてから、立ち上がる。
 気怠さの幾分かは消えていた。さながら、夏日に晒され溶けていく氷塊のようである。じれて焦れてから、さらり流れる水に変わりゆく。
 さて、件の気配の主は、どうにも二の足を踏んでいる様子である。
 ブルーには、個々人が垂れ流す魔力の区別はついても、そこに在る思考や感情といったものは読めない。ただし、どのように動いているかは分かる。
 扉の先にいるはずの人、つまり、まず間違いなく、ブルーに何らかの用があるはずであるが、ノックすら躊躇っているようなのである。扉の前を行ったり来たり、真正面で突っ立ったまま動かなかったりなどはしていても、取っ手に己の手を掛けない。いや、手を掛けようとしてまた躊躇ったりなどもしている。とにかく、踏ん切りが付かない様子なのである。
(……らしくない)
 彼とはそう時間を共有していない。他の道連れたちもそうであるが、こちらブルーから進んで関係を築こうとはしていない。かと言って、言葉すら交わさなければそもそも旅が成り立たない。必要があれば話をするが、そうでなければ顔を合わせることすらない。
 だから、偶々たまたま出会って、今だけ道を共にしているだけ・・の他人のことなど、知る由もないはずなのだが、気が付いたら目に見える仕草や癖は覚えているし、為人ひととなりもそれとなく把握してしまっているのだ。だから、"らしくない”などという言葉が浮かんでくる。耳に届く声として出すつもりはないが。
 互いに逡巡したり、あるいは思案を重ねても、堂々巡りで話が進まない。
 窓から自然光だけを取り込んだ室内は仄暗く、なのに、肌をじっくりと撫でられているような湿気と熱気が籠もっていて、アンバランスだ。それでも外よりここは涼しいのだろう。……いや、もしかしたら、この部屋の中の方が暑いのかもしれない。シンロウは確かに高温多湿だが、よく風も吹くから体感温度は意外と低いと書いてあったから、そよ風も吹き込まない部屋の方が実は暑いのかもしれない。
 目で見てすぐ分かるところに、答えはない。
 ブルーは扉を開けた。
 ぬるい風が頬をひと撫でして、煙草シガレットの匂いが鼻孔を突いた。

    
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