輪郭
「あ、ブルー! ブルーも本屋さんに用事があるの?」
温かくはあるが、少し歩けば汗ばむ、その程度の陽気の中にあるシュライクである。
さすがに毛皮のショールを羽織ってはいないが、上質だが重く厚手の生地で仕立てられた法衣を着込み、額から耳から首もとまで、アクセサリーの数々をフルセットで身につけたブルーの全身を、メイレンは訝しげな目で睨め回した。
「……珍しく、もないわね。術士ならあらゆる書物に興味があって然るべきなのでしょうし」
なぜ、あなたみたいな人がこんなところに来たの?
咄嗟に浮かんで喉と頬裏の境目まで出掛かった問いを、メイレンは胃の中にまで押し戻した。
また、同じような問いはブルーの頭にも浮かんだのだが、声にも言葉にもならずに霧散した。彼にとって、まるで無意味な愚問だからである。
冷たくはあるが、湿気をはらんでいて、かび臭くもある冷房からの風を真正面から受けて、ブルーは街角にある書店に入る。
入り口の真正面にはあらゆる雑誌が並び、左手に進めばこのリージョンの観光ガイド、奥に進めば歴史書などが所狭しを並べられている。
それらとは逆の方向である右手の本棚、そこに緊密に詰められた書籍の背表紙をメイレンは凝視していた。その近くに並べられている雑誌を、めくっては戻すことをクーンは繰り返している。いつも一緒にいる一人と一匹を一瞥してから、ブルーは硬い装丁のなされた歴史書の一冊を手に取った。
このシュライクには、歴史に名を刻んだ偉大なる王が二人いるのだと言う。その二人は武力や知恵などいった実力を備えていたことは確かだが、常ならざる力を従えていたとも伝えられている。
専門書とまでは行かないが、写真などの資料も交えて詳細に記してあるその書籍にブルーは目を走らせる。味読する時間も興味も全くないため、脳裏に手がかりとなる言葉を浮かべて、次々とページをめくっていく。
ドゥヴァンの占術師によれば、この地にルーンのひとつがあるのだという。
巷でまことしやかに囁かれる噂によれば、街の南方にある武王古墳に勝利のルーンが隠されているとのことだ。
ただし、そこは決して穏やかではないモンスターどもの巣窟になっていて、一歩足を踏み入れれば命の保証はないのだともされている。
(そのことに関しては問題はないのだが)
王国を出て早や数ヶ月。魔術の理論はほとんど当たり前の知識として刻まれ、術の源である魔力は身体の芯から手指の先々にまで満ち充ち、実戦の経験も着実に積んでいる。実際に、ブルーは既に2つのルーンを我が物としていて、仮に武王陵にモンスターがあふれているとしても、難なく退けられる自信が彼にはあった。
問題は、武王の古墳には本当に『勝利のルーン』があるのかというところなのである。
「ねえねえ、ブルーは何の本を読んでるの?」
手に取った歴史書に『勝利のルーン』の記述を探しているブルーの衣服の裾を、背の低いクーンがその長い指で遊ぶように何度も引っ張る。それから、かの青い瞳と目を合わせようと顔を見上げるものの、ブルーが意識して目を逸らしているので、それは叶わない。
何も知らない他者からすれば、年端の行かぬ子どもに見えるが、クーンは荒事に慣れている。その証拠のように、強く握りしめた法衣の裾には皺が寄り、このままでは跡になって残るだろうことがブルーにも予想できた。
さして興味深い記述もなく、有り体の情報しか書かれていなかった書籍を棚に戻し、ブルーは視線を下ろす。本棚よりは下、床よりは上、何より彼の傍ら、ブルー自身に寄り添うようにクーンは佇んでいた。
他にすることはないのか、と訊ねそうになったが、答えは決まりきっていたので、ブルーは口を噤む。獣に書物を読む習慣はないだろう。そう決めつければ、彼自身の中でますます疑問が広がっていく。
その解を持つのは、こことは別の棚の前で本にかじり付く女。
(どうでもいいことか)
解がどのような形をしていようが、彼自身にはほとんど全く関係のないことである。
ブルーは視線を棚へと戻し、また別の歴史書を探す。題名、著者、出版社、頁数などを参照し、詳細な記述があるだろう書物を探すが、先ほど目を通したもの以上に事細かなものはないようだ。あるいは、この書店は専門書の類はあまり取り扱っていないのかもしれない。狭い店内にありとあらゆる分野の書籍を置いているようだが、その分専門性に欠けるだろうということは、ブルーには容易に想像ができた。
(そうなれば、ここに長居する必要もない)
短く浅く息をつき、ブルーは右足から踏みだして出入口で向かおうとする。が、先ほどから変わらずに彼の法衣を握り込むクーンがそれを阻んだ。
邪魔だ、と吐き捨てる前に、クーンが先に口を開く。
「もう行っちゃうの?」
ブルーはマスコットや愛玩動物などに絆される性質ではない。
たとえば、毎日櫛を入れられて触り心地の良さそうな毛並みや、どこまでも円らな黒い瞳、溌剌としていて菓子のような甘さも含まれる声など、世の中の大半の人間が庇護欲をかき立てられる要素に、ブルーが心を動かすことはない。
よって、このモンスターの言葉を耳に入れてしまうのは、旅路を同じくしているからだとか、戦いの時には助けられることもあるからとか、そう彼は内心で言い訳をする。その考えを表に出したところで、咎められることはないだろうが、逆に、もしも騒ぎ立てられても面倒だと彼は思った。
そう、面倒なのだ。自分自身の言動に一喜一憂する旅の道連れたちが。そして、煩わしいのだ。それに何かしら応えてしまいそうになる己の心のさざ波が。
ここにいるから放せ、とブルーは手振りで伝えてから、クーンの問いに答える。
「この街には『勝利のルーン』があると聞いている。
その情報をここで探していたが、大したものはなかった」
「そっか、大変だね。それじゃあ、ブルーはこれからどうするの?」
またも問われて、何回か瞬きする程度には返答に詰まる。
それぞれ異なる目的で集まった寄り合い所帯だが、その中心にいるのは不思議なことにブルーだった。その彼が今日は休養日と決めたので、旅を同じくする面々は、思い思いに過ごして羽を伸ばしている。ブルーからすれば、情報収集の必要性があるために便宜上休みとしただけであり、不本意とはいえ、目的が達成されれば建前を取り繕う必要もない。
「ルーンが武王古墳にあることは事実らしい。
……ならば、行ってみるしかないだろう」
「今日はお休みにしたんでしょう、一人で行くつもり?」
一人と一匹の会話に横入りしたのは、やはりメイレンである。
彼女は何冊かの本を見繕ったらしく、腕に抱えてブルーやクーンがいる方へ、ヒールを鳴らしながら近づいてきた。
「ごめんなさいね、ブルー。クーンの世話をさせちゃって」
「……この獣が本屋に興味があるとも思えないが」
クーンはメイレンに懐いている。
天真爛漫で人を疑うことがなく、そして時々さり気ない毒を吐くこともあるクーンは、誰にだって親しみをもって接するが、特にメイレンを慕っているのは疑いようのない事実だ。
そうであっても、クーンを書店に連れてきて、何か有益なことがあるとは思えない、というのがブルーの見解である。
「そうね、今はね。
ところでブルー、サムナ文字って知っているかしら?」
記憶にない言葉を出され、ブルーは首を横に振る。
リージョン界の共通文字や魔術言語、あるいは今まさに修得を目指しているルーンについては知識を詰め込んでいるが、それ以外の事象に関しては、旅に支障のない範囲のことしか身につけていない。
「あら、意外だわ。まあ、術にはそんなに関係のあることじゃないものね」
微笑みながら近づいてくるメイレンを、ブルーは無表情で見据えたが、その胸の内は面白く感じていなかった。己の浅学を指摘されたようで、本音を言えば腹が立っている。そういう感情の起伏を、ポーカーフェイスで包み隠すことは得意だと、ブルーは自負している。が、つい先日に、仏頂面はやめておけ、と言われた記憶が彼の脳裏を過ぎった。
彼の足下では、クーンが相変わらずの落ち着かない様子で、そう広くはない店内を見回している。いつでも、どんなものにでも好奇心を抱く性質らしいが、羽根でも生えたかのように(時と場合によっては本当に羽根が生える場合もあるが)浮かれた様を見ていると、こちらの気がそぞろになってしまう気がした。
「ねえ、ブルー。そこから何か取ってちょうだい。ボクだと届かないんだ」
ブルーは背にした本棚から適当に本をひっつかみ、放り投げる。けばけばしいフルカラーの書籍がくるくると縦回転して、クーンの手元へと吸い込まれていった。これでしばしの間、クーンは黙るだろう。そう思えば、胸に籠もる狭霧が少し晴れた気がする。ブルーはまたひとつ息をついた。
この一部始終を目撃し、メイレンは口元を手で押さえる。
その所作だけで、苦笑しているだろうことがブルーにも見て取れた。
「あんたねえ……。店員が見ていなかったから良かったものの」
「こいつがやかましいのが悪いんだ、子どもはうるさくて叶わない」
「そんなことを言っているアンタの方が子どもみたいよ」
「……それよりも、さっきの話はどうなった」
「あら、聞いてくれるの。珍しいわね」
ほんの少しのしくじりを、このままいじくり回されるのも癪に障るので、ブルーは話を戻そうとする。また、彼自身が知らない文字や言語というものに、一片くらいは関心を持ったからでもある。
「サムナ文字って、そういう名前だというのは、T260から聞いたのよ。
マーグメルのモンスターたちが使っている文字で、指輪……私と、クーンが探している指輪にもこの文字で彫り込みがあるの」
指輪の話は以前に聞いたことがあるし、指輪そのものもクーンに見せられたことがある。遠目で見ても分かるほどの魔力を放ち、近くに寄れば波動の形まではっきりと見えそうな程に強烈な力を秘めた指輪。資質には全く関係ないことではあるが、それにはそこそこ、いや、なかなかの興味を抱いていたブルーである。
その指輪が関わっているのならば、なかなか有意義な内容になるのではないか。――彼のそんな期待を知る由もなく、話は妙な方向に転がっていく。
「クーンも少しだけだけど、サムナ文字が読めるのよね。
マーグメルにいるラモックスの長老は、すらすら読めるって話よ。
……それくらいの頭があるんだったら、簡単なリージョン共通語なら読めそうじゃない?」
ブルーはうなずきはせず、かと言って首を振るようなこともせず、ただ小さく喉を鳴らして、黙りこくった。メイレンは構わずに続ける。
「今は一緒に旅をしているからいいけれど、共通語くらい覚えていても損はないじゃない。だから、子ども向けの本を探していたのよ」
ああ……、と生ぬるいため息がブルーの口からこぼれる。
よく見てみれば、メイレンが小脇に抱えているのは幼児向けの絵本といったものが中心だ。
メイレンの言葉は、理に適っているように響いている。
(……こんな獣に言葉を与えて、何の意味があるんだ)
例えば、手に届かないほど高い位置にある本ならば、脚立を使えば取ることができるし、そもそも本に大した興味もないのなら、着いてこなければいい。その程度のことすらも判別できない時点で、知性を与える意味などない。身体の中心で張りつめていた糸が急激に緩んで、ブルーはそこにある本棚にもたれ掛かった。
投げ渡された本をしげしげと眺めていたクーンが、黒い双眼をぱちくりと瞬かせて、傍らにいるメイレンを見上げる。
「ブルーはどうしちゃったの?」
「疲れているのよ、そっとしておいてあげて。
ところで、クーンはどんな本を読んでいたの?」
「あのね、あのね、メイレン。この人たち、変なんだよ。
この本にいる女の人たち、みんな裸なの」
小さな体躯に対して大きな両手で、クーンはその本を開いてみせる。
滑りのいい紙に色とりどりのインクをたっぷりと乗せて刷られただろう、それ。
そこから、一糸もまとわぬ女性たちが、蠱惑的な表情を浮かべてこちらを見ていた。
顔色を真っ青にしてから、真っ赤にして、メイレンはクーンの手元からその本――いわゆる写真集を引ったくり、棚に背を預けたままのブルーへと投げつけた。
「あんた、クーンになんてものを見せてんのよ!」
宙を舞う間にばさりと水平に見開かれて、そのまま顔面で受け止めたブルーがくぐもった声で答える。
「……無意味な本だな」
そりゃ、あんたからすれば、この世の大半に意味なんてないでしょうよ。
そう叫ぼうとしたメイレンの袖を、クーンが引っ張る。
我に返ったメイレンの耳元に、クーンが顔を寄せた。
「ねえ、メイレン。あの女の人たち、暑いのかな」
「…………そうなんじゃないの」
それぞれがそれぞれの目的のために、リージョン界のあちこちを旅していた、とある日のことである。
この後、本屋の店主にどやされてから三人仲良く追い出されたのは、言うまでもない。
←メニューに戻る
5,000字程度で気楽な話を、と思って書き始めた割には難産な話でした。
そしてこれまで書いた話で毎回メイレンとクーンが出ています。
クーン編でのあれこれで悪名名高いメイレンですが、私は何だかわりと好きなので、
仲間に加えられる時は加えてレギュラーにしているので、何だかんだと愛着があるのかもしれません。
それから、クーンを動かす時はどうしてもメイレンが一緒じゃないとしっくり来ないということもある。
そんな3人を書いた話、どうしてこんな名前かといえば、意外な一面→横顔=輪郭、を描きたいと思ったからで、
実際にその試みがうまくいったかと言えば、そうではないような気がします。
小説とは不思議なもので、書いているその時にその対象を理解できるような気がすることもあるので、
またこういう話は書いてみたいですね。でもその時はもっとブルーを硬い性格で書いてみたい。
今回の話も何だかんだで優しいような気がします。
それではここまでお読みくださり、ありがとうございました!
2018.8.13