夜想酒

 今は昔の話というには、誰もの記憶にまだ残っている、それくらい古くて新しい過去の話である。
 リージョン界を統べるトリニティに叛逆の意思ありとして、ひとつのリージョンが滅ぼされた。仄暗い海に浮かぶ城郭を誇りとし、誰もが剣術に励み、事実、手練れの剣豪を数多く擁していたとされる、剣士の国・ワカツ。
 そこは剣の神々に愛された土地。天守閣におわす剣聖はワカツの人々に剣の才を与え、城内の秘された場所にいらっしゃる剣神は、達人の極みにまで達した剣士に御自ら刀を授けてくださるのだと伝えられている。
 しかし、この伝承はいつかは過去のものとなり、人々も記憶からも消え、なくなっていく。――そんな諦念を覚えるほど、今のワカツは荒れ果てていた。
 何の予告もなく放たれたレーザービームの閃光は、ワカツの象徴である白い城郭と女子供も含めた住人をも容赦無く焼いたのだという。それから間もなく降着したシップの数々からは武装した軍人が飛び降りて、逃げ惑う人々に銃弾の雨霰を浴びせたのだという。
 この強硬な惨劇に世論は批難の方向に沸いたが、トリニティの威光に抗う勇者は皆無であり、「ワカツは滅んだ」という事実だけが多くの人々と歴史に虚ろな穴となって彫り込まれた。
 ただし、何の感慨も湧かない人間もいるにはいる。朽ち果ててなお、一閃の煌めきのような明かりを宿す剣聖の間で、目を伏せて何かに祈るように両手を合わせるこの男がそうだ。己の名前そのものの法衣を身に纏い、陽光を集めたような明るい頭髪を結い上げて、四肢のいたるところから未だ鮮血を垂れ流すこの青年は、マジックキングダムの出身である。彼の地は魔術を始めとした術法こそが現世の全てであるとされており、成る程、それならばワカツを襲った悲劇などにはさして興味がないのだろう。
 今再び故郷に帰り、そしてかつての同胞だった亡霊ものをいくつも斬り捨て、剣の神が一柱が宿るとされる天守閣に辿り着き、まだ若い青年を見る男の目は、冷静というより冷々としていた。
(酒が足りない、もっと飲んでくればよかったか)
 素面であるからつまらないことを考えてしまうのだとゲンは内心で己を嘲る。全く価値観が異なる相手に何かしらの感慨を抱いてほしいと願うことこそ傲慢である。そう断じて、彼は改めて青年を見やった。
 成人男性らしく背丈はあるが、肉付きはそれほどでもない。旅を始めて数ヶ月あまりというが、今以て生白い肌からはこれまでの人生の大半を屋内で過ごしていたことが窺えた。そのため素早い敵を追う瞬発力とか、ひたすら走り続ける体力などには欠けるが、術を練り上げる集中力には長けていて、相対した敵を焼き尽くす魔力には目を見張るものがあった。
 他人ひとの目を惹く顔立ちに凜とした空気を装ってはいるが、怜悧であり、むしろ冷淡であり、しかし時折ひどく虚ろな部分も見せる。旅仲間としてのブルーはそういう人間であるようにゲンの眼には映っていた。特筆すべきは術法に対しては真摯である点であろうか。その中でも術を使い熟すための資格、資質の修得には並々ならぬ執着心を持っているようだった。
 無辜の民が蹂躙されたワカツには亡霊が蔓延り、その怨念がモンスターなどを喚び寄せ、狂わせている。そのせいか、手強い敵が尽きることなく湧き出てくるようで、先ほども、後衛に下がっていたはずのブルーの間近に凶刃が迫ったのである。直後に放たれた術の光が理性を失った獣を包んで消したが、彼の左腕からは鮮血が溢れた。印を結んだ右腕をかばったのだ。それまでも決して少なくはない傷を追っていたブルーは、獣が蒸発したことを確認してからその場に崩れ落ちる。
「もう無理よ、一度戻りましょう」
 獣どもの殺気がひとまずは失せて、バックパックから銃弾を取り出していたエミリアが退却を口にする。が、ブルーは首を横に振る。その所作は弱々しく、声も発せないところを見るに、彼自身も己の消耗を悟ってはいるようだ。エミリアは信じられない、と言わんばかりに眼を見開き、その傍らにいるメイレンも右手で顔を覆う。リュートは無理すんなよ〜、と言いながら肩を貸そうと近付こうとするが払いのけられ、クーンだけは何もかも気にすることなく近寄って、彼に治癒の光を当てた。それで大分楽にはなったらしい。青ざめた顔に僅かばかりだが血の気が戻る。貧血のためか、ふらつきながらもブルーは立ち上がる。
「ゲン、剣のカードは近いのだろう」
 乱れた頭髪を整え、法衣についた土埃を払いつつ、ブルーは問う。
「ああ、この階段を昇れば天守閣……剣聖の間はすぐだ。
 だがな、そこが安全とは限らない。むしろ、頭の狂ったモンスターどもがうじゃうじゃひしめいているかもしれん」
「構わない、術で全て蹴散らす」
「正気か」
 確かに、ブルーが操る魔術は凄烈だ。先ほどのように敵の一匹二匹程度であれば瞬時に消し飛ばすし、至大の魔力を緻密に織り上げれば、波のように襲い来る大群をも一掃できる。一行(パーティ)がそれに頼ることもしばしばだ。しかし、今の彼は明らかに十全ではない。加えて一行もあちらこちらに傷を負っている。彼に大規模な術を編み上げるだけの魔力が残っているか分からなかったし、仮にあっても術の詠唱が終わるまで敵の攻勢を捌ききれるか、その判断の線は実に微妙なところにあった。
「――俺は……私は、一刻も早く、完璧な術士にならなければならないんだ」
 つぶやくように、ささやくように、言い聞かせるような、唸るような、低い声。
 この青年はそれほど生きてもないだろう、少なくとも故郷を失う憂き目に遭い、その後あらゆるリージョンを放浪してきたゲンよりは人生経験が少ないはずだ。だけど時折、このように熟練の戦士が気圧されるほどの気迫を彼は見せつける。術の資質に関わる事象であれば、尚更。
「……分かった、剣聖の間に案内する。
 勇猛と無謀を履き違えるお前に剣のカードを手にする資格があるか、剣聖が判断するだろう」
「望むところだ」
 ゲンの忠告とは裏腹に、剣聖の間には獣の影すら見当たらず、仄かな明かりと静寂、そしてえも言われぬ威圧感が在りし日と変わらずそこに鎮座していた。などを物ともせず、剣のカードを欲する者の到来に、灯火はゆらりと揺らぎ、種々様々の影を造り出す。
「心の目を使い、この部屋の影をすべて剣の形に揃えるのだ」
 そして、現在に至る。
 ある程度戦いには慣れた様子であるが、これほどの遠行は初めてなのだろう、顔色は良くない。魔力を高めるために着けたのであろう装飾のいくつかがひび割れて壊れていて、青い法衣もところどころ破れていた。口端から出た赤い血がいかにも痛々しく映っているが、しかし眉間にはひとつの皺もない。法衣と似たような色合いの、何よりも名前と同じ色をした瞳を見ることはできない。しかし、両手を硬く組み合わせ、祈りを捧げるように精神こころの世界へ入り、眼でも手でも捉えることのできぬ「剣」を掴もうとするその立ち姿、相当に疲労しており、血も足りていないくせに微動だにもせず、ひたすら集中し続けるその有り様に、ゲンは感心していた。
「ゲンの旦那、ブルーは大丈夫なのかい?」
「今に分かる」
 顔色の悪さは誰が見ても瞭然であり、今にも倒れそうなブルーの姿を、彼の連れ合いたち不安げに見守っている。ゲンは旅に同行して日が浅く、その間でも彼の性質たちというものをまざまざと見せつけられたので、思うところがないわけではないのだが、術の腕前と、先に見せたような芯の強さは認めていた。
「すごい……全部剣の形に……!」
 メイレンとエミリアがわあっと声を上げ、リュートは口笛を吹きながら自らの同じ名の弦楽器をかき鳴らす。そしてクーンがつられてぎゃあぎゃあと騒ぎ出したところで、ゲンはほっと息を吐いた。
「やればできるじゃねえか、兄ちゃん!」
 土壁、障子、畳床、天井、その全てに映し出された影の全てが剣の形に変わったのだ。
 それはすなわち、ブルーが心の眼を持って剣を掴み取ったことに他ならない。
 両手を離して集中を解き、カードが舞い降りてくる中空を、ブルーはぼんやりと眺める。死闘の連続と極限の集中状態の後に顕現したカードをその手の中に収めてから、その身体は支える力を失う。
 まるで糸が切れたようにぱったりと、ブルーの身体は前のめりに倒れ込んだ。
 歓声が悲鳴へと変わり、女が、男も、そして獣もその名を呼んだが、彼の耳に届くことなく、意識は閉ざされていった。

 ◇◆◇◆◇

 浜辺に押し寄せては砕け、砕けては引き戻る波の音。
 転がる鈴の音に似た虫の声。
 しとり湿った風がレースのカーテンをさわさわと揺らして、白いシーツに埋もれて眠る人の頬をもくすぐった。
 色素の薄い金の髪は下ろされて、彼のよく整ったかんばせやシーツに落ち、窓から室内へと入り込む風にそよぐ。ブルーは意志無いように振る舞う己の髪の一房を手に取り、何となく捩ってみた。ゆったりとしたウェーブを描く長い髪は、彼が積み重ねてきた修練の長さそのものである。定期的に毛先を整えているが、ばっさりと切ってしまおうと考えたことはなかった……旅に出るまでは。
 学院の庇護下で、規則正しく生活し、術書を読んでは実践することの繰り返し。そんな修士課程の頃であれば、彼にとって髪の手入れは日常の一部でしかなかった。しかし、旅は成すべきこと、考えることが多くて、髪を結い上げることすら手間だと感じてしまうようになる。それでも毎朝飾りも含めてきっちりと仕上げるあたり、これが自らの習性なのだろうと、彼自身妙な納得をしていた。
 しかし、今は朝ではない。
 部屋は薄暗く、彼自身が横たわるベッドから間遠のところに掃き出し窓があったが、そこから覗く景色は明らかに夜半のものである。
(――――ここは、どこだ)
 藍の空には星明かり、空の下に何があるかは果たして分からないが、風が土と潮の香りをも室内に運んでいた。どうやら水辺のリージョンのようだ。そこまではろくに頭の回らない今の彼でも分かった。
 ワカツで剣のカードを得てからの記憶はない。どうやら連れの面々にここまで運ばれたらしい。
(身体が……頭も、重いが……起き上がれないほどではない)
 剣聖の間までの道程で術力はほとんど底を尽き、それに加えてカードを得るための精神統一。元々それほどには備わっていない体力も丸ごと削り取られ、怪我も重なり満身創痍。
(我ながら、よく立っていられたものだ)
 鼻を短く鳴らしてブルーは笑う。自賛というよりは自嘲に近い心境である。
 肉が鋭く傷み、骨が細かに軋む身体を何とか起こすと、眼前に掛かる靄の何枚かが取り払われた。そうして少しだけ、今の状況が見えてくる。
 ワカツとこのリージョンとの時差の幾分かはあるだろうが、今は夜半であることには違いない。剣聖の間に到着したのは深夜と早朝の境目の頃と彼は記憶していた。そこで力尽きてからおよそ半日以上、ブルーは眠っていたことになる。
 先を急ぐ旅である、こんなところで立ち止まっていてはならない、一刻も早く資質を身に付けなければならない、そのような焦燥感はもちろん、いつでもブルーの中にあって、なかなか資質集めが捗らないジレンマと相俟って燻って黒い煙を立てている。
 しかしながら、である。ぐう、と鳴く腹の虫を無視もできなかった。
 半日間眠っていたということは、その間何も口にしていないということでもある。
 腹が減っては戦はできぬ、という諺がかのリージョンワカツには伝えられていたのだとか。
 今宵は素直に、虫の声に従うことにするか。
 ブルーはやむなくそう決めて、柔いベッドから立ち上がったのだった。

 ◆◇◆

 さて、宿の受付に聞くところによると、ブルーが今いるリージョンはオウミというらしい。先ほどまでいた客室での推測通りに水資源が豊富なリージョンだ、陸地が湖に程近いところにあり、かつ涼やかな気候であることから、避暑地として有名なのだという。
「お連れ様方は、道を挟んで向かい側のレストランにいらっしゃいますよ」
 現状確認のために受付と一頻り話をしてから、ブルーは旅の連れどもの行方をそれとなく訪ねた。追うためではない、離れるためである。
 あくまでも資質の修得と術の研磨のため、ブルーの旅はそのためだけのものだというのに、雑音があまりにも多いのだ。その大半の原因は一行パーティの面子にあると考えている。何かあればすぐに歌い出すリュート、メイレンやエミリアは女だからか口やかましく、クーンに至っては何もなくても脳天気にはしゃぎ回っているのが実に鬱陶しい。剣のカードを得るために加わったゲンは、四六時中アルコールに浸っているのか酒臭い。そういう面々と一日中顔を突き合わせていれば、術の修養も出来やしない。
「いや、この宿に食事をする場所はあるか?」
「もちろんございます。あるいは、サンドイッチなどの軽食であればお部屋までお届けいたしますが」
「いよう、ブルー! もーう元気になったのか〜?」
 外への扉が打ち開かれた音と、けらけらとしていてかなりの上機嫌な声が背後から聞こえてきたのは、ほとんど同時であった。
 ブルーは、ゆっくりと、じりじりと、おもむろに振り返る。まるで、現実を直視したくはないとでも言わんばかりに。
 サファイアブルーの瞳に、彼にとって全くの想定通りで、そして今夜ばかりは絶対に会いたくない人間の顔が映し出される。
「……リュート」
 紫の混じる青の髪は全て下ろされて、田舎ヨークランド育ちのためか、浅くだが陽に灼けた頬が赤らんでいる。足取りはどこか覚束ないし、ブルーとは距離があるのにアルコールの饐えたような臭いが漂ってくる。詰まるところ、リュートは相当飲んでいて、大方酒に呑まれているようだった。
「腹減っただろ〜、起きたんなら飯食おうぜ。
 みんなでそこの飯屋にいるんだよ、なかなかいい雰囲気のところでさ〜」
 退くのが先か、掴むが先か。今回は掴む方が早かった。
 ブルーが適当な理由を考えている数瞬の間に、リュートの腕がにゅっと伸びた。そのままブルーの細い腕を掴み、ほとんど力任せに引っ張っていく――外へ繋がる扉の方へと。
「――おい!」
「みんなブルーが起きるのを待ってたんだぜ、カードを貰ったお祝いなのに、主役がいないんじゃつまんないだろ〜」
「それを目的にしてただ騒ぎたいだけじゃないのか」
 さすがに引き摺られるのは嫌なのだろう、ぐいぐいと腕を引くリュートに、前のめりになりながら着いていくブルーは気づかない。
 理由など考えなければ、これまでのようにただ黙って踵を返して背を見せるだけで、リュートを追い払えただろう。
 そのことにブルーは思い至らなかったのである。
 開け放たれた扉から、びゅう、と温い風が吹いて、ブルーの首筋をなぞる。
 それを気持ち悪い、と感じる間もなく、暗がりが敷かれる外に出てしまった。

 ◆◇◆

 レストランは、ほとんど貸し切りのようなものだった。
 もう夜半を越えて真夜中に差し掛かろうという時間である。
 ある種で時間の概念が希薄なクーロンとは異なり、オウミは夜には寝て、朝には起き、昼に働く街である。ここで暮らしを営む者の大体は、今頃は布団の中にいて、うつつにいるのは外様とざまの輩ばかりだ。根なし草の旅人は十分その部類カテゴリに入る。
「あらブルー、こんな時間に起きるなんて、ずいぶんとお寝坊さんなのね」
 ちりんちりん、という軽やかな鈴の音を耳にすれば、中で飲み食いしているほぼ全員が扉の方へと目を向けた。間髪入れずに声を上げたのはメイレンだ。彼女の左手にはガラス製らしい杯が握られていて、その中の氷の一粒がからんと弾けた。
「今夜は髪を下ろしているのね、珍しいわ」
 その隣でワインボトルを傾けているのはエミリアだ。今まさにメイレンへと酌をするところだったようだ。その傍らにジョッキグラスが置かれており、まだ半分ほど残る麦酒が音を立てずに細かな泡を吐き出し続けている。
 女性陣二人が腰掛けるテーブル席には、枝豆や芋のフライ、それに白身魚のフリッターなど、いわゆる酒の肴に打って付けの料理が並んでいる。それらは少しずつだけ手がついているものの、女は食べるより呑む方が、更に言えば呑みながらも喋る方が華やぐものらしい。二人ともブルーを一瞥してから、また二人の会話ガールズトークへと戻ってしまった。
「ほんとうだ、髪を結んでないブルーなんてとってもめずらしいね!」
 メイレンの真向かいで、ふわふわと毛量のある尻尾を揺らしているのはクーンだ。この獣はまだ幼体こどもであるらしく、酒の類いを嗜んでいる様子はない。しかし、料理は十分に堪能しているらしく、食べかすの付いた空っぽの器がテーブルの上にいくつも重なっている。この勘定は高くなるだろうなとブルーは想像してから少しだけ肝を冷やした。
 そのブルーの出で立ちは、クーンの言う通り、確かに平時とは異なっている。
 硬く高くひとつに結われた頭髪は下ろされて、緩い線を描きながら肩に背中に流れていた。肌着の上にガウンを羽織り、下は締め付けの強くないスラックスと、普段に比べればごく簡素な衣類の構成である。彼の姿を見慣れた者でも、いつもとは違った印象を抱くことだろう。もっとも、その冷々としていて硬質な気配は変わっていないので、結局のところ、彼がブルーであることには違いなかった。
「まあ兄ちゃん、こっちに座れよ、腹減ってるんだろ」
「いや、私は」
「おネエちゃーん、ビール一杯追加ァ!」
「お、おい、待て。私は酒は飲まないぞ」
 お猪口に並々と注がれた清酒を啜り、いつの夜もアルコールさえあればご機嫌なゲンが招き猫のように手を振った。ブルーは躊躇う、というよりは、ここに来て拒絶の姿勢を見せたのだが、リュートがいいのいいのと言いながら背後から両肩をつかんで押してくる。それに抗う力はなく、押されるがままに席に着き、椅子に座り、腹が空いているのは事実なので、ならば軽食でもとメニューを覗こうとしたところで、リュートがその朗々とした声を張り上げてウェイトレスを呼び止めた。
「何だよ兄ちゃん、ノリが悪いな、大体こういうところに来たんだったらまずは呑むのが常識ってモンだろ」
「……体調が優れないんだ、それに今日は一日眠ってしまった、時間が惜しい」
「いやいや、ブルーさん、いくら先を急ぐ旅といっても、酒呑んで酔っ払うくらいの余裕はあるでしょうよ」
「リュート、お前いいこと言うな! そうだ、人生は酔ってこそだ、酔ってからが本番だ」
「…………その理屈は全く以ておかしいと思うが」
 ゲン、リュート、それからブルーが着くテーブル席に、ウェイトレスがそそっと近付く。
 ほんの少しだけ頬を染めたその女が、ご注文は何になさいますかと聞いてくる。
 少しだけ、ほんの少しだけ逡巡してから、ブルーは答えた。
「それでは、蜂蜜酒ミードを水割りで」

 ◆◇◆
 
 魔法王国の術士たちは、大概は真面目で勤勉で禁欲的で、日夜術の研究に勤しんでいる。
 だが、ごく一部の例外下戸)を除き、酒を飲み慣れていた。
 理由は至極簡単、『術酒』の存在である。
 消耗した術力をたちどころに回復させる奇跡の飲み物であるが、文字通りに酒である。しかも、薬草や乾物を漬け込んでいるために、えぐみがあって渋くて飲みづらい。そのため子どもには向かない(一般論として飲酒は成人になってからであるが、もちろん魔法王国においては当てはまるはずがない)。そのため、他の飲み口のいい酒を混ぜて飲用されることがある。主に果実酒が用いられているが、蜂蜜酒も多く飲まれていた。
 透明なグラスを手に取ると、ひやり、と冷たい感覚が伝えられる。両手で手に取り、包み込み、まずは一口だけ口に含む。古い記憶の中にある味と似ているが、違う気もした。一口分の酒を飲み込んでから、ブルーは改めて器を見る。うっすらと結露が浮くグラスには、己の頭髪と似た色の液体が頼りなく揺れていた。まるで何かに似ているような、そうでもないような。
「そんなチビチビ飲んでないで、もっとグイっと行きなって」
「こら、リュート。ブルーは病み上がりなのよ、ほどほどにしておきなさい」
 お日さまはすっかり落ちきって、半分だけ顔を出したお月さまが空へと昇り、出窓から店内の6人を覗いている。深夜に近い時間帯にも関わらず、店内からは爛々とした人工の燈にあふれていて、まだ眠りにつかない虫たちを引き寄せて、一見して賑賑しいその空気は、あるいは肉を成さない霊魂を吸い付けているようで、程近い湖には青白い燐光が踊っていた。その様は、まるで尽きる直前の線香花火のよう。
 そんなことを知る由もない暢気な人たちは、出来たての料理に舌鼓を打ち、苦くてほんの時々は甘い酒精(アルコール)で喉を鳴らしている。――ブルーもその例外ではない。
 腹は空くには空いていたが、術力を使い果たしたからか、はたまた連日の疲労が重なったためか、重い食べ物を見るだけで胃に石か鉛を乗せられるような感覚を味わう。ブルーが注文したのはクリームリゾットと先ほどの蜂蜜酒であった。甘い口当たりの酒と粥とでは、それほど相性がいいと言えないし、奇異であるようにも見える。なぜこの組み合わせにしたのかと問われれば、故郷懐かしさ、と内心でだけで彼は答えるだろう。多少の差違はあるが、昔から慣れた味わいに安堵する――心のほんの一部分だけで。
(まだ、秘術を得られてはいない。まだ、旅は続く。
 まだ、キングダムには、戻れない……)
 その身に大きな魔力を宿して生まれ、幼い頃から非凡なる才を顕し、王国の将来を担う者として嘱望され、もしくは妬み嫉みもされてきた。そういう自負がブルーにはある。
(だからこそ、課せられた使命を果たして、帰らなければならない……私が、私こそが)」
 完璧な術士になるために、キングダムの望む存在になるために。
 自らとよく似た姿形という、紅玉の瞳を持つ男。その息の根をこの手で止めなければ、故郷への帰還は叶わない。
「なあ、ブルー。せっかくの祝い事なんだ。陰気な顔して酒を飲むのはやめようや」
 蜂蜜酒を一口、また一口と呑み進め、無言で眉間に皺を寄せるブルーを、相も変わらず酔って陽気なゲンが制する。しかし、大人しく従う男ではないのは、ここにいる誰もが知るところだ。
「……何を思いながら食事をしようが、あなたには関係ないだろう」
「酒場にゃ雰囲気ってものがあるだろう、せっかくの酒も不味くなっちまう」
「それは悪かった、それでは私には構わずに、せいぜい楽しんで酔い潰れてくれ」
「まあまあ、剣のカードを無事に手に入れられたお祝いなんだ、肝心のブルーがいなくちゃどうしようもないだろ?」
「そんなこと、私にとっては通過点に過ぎない、資質を手に入れなければ、意味が無い」
 男連中が小さなことから諍いを起こし、腹をぽっこりと膨らませたクーンが、それを丸い瞳で不思議そうに眺めている。女同士の話に花を咲かせていたメイレンとエミリアが、やれやれそろそろ仲裁に入らなくちゃならないか、と重い腰を上げたところで、徳利の中身を空にしたゲンが、小さくぽつりとつぶやいた。
「通過点、か……。俺にとっては、たったひとつの郷里なんだがな」
 故郷、帰りたい場所、帰るべき場所。そして、もう帰れない場所。
「なあ、ゲンさん。その話、少し詳しく聞かせてもらっても大丈夫かい?」
 赤紫の葡萄酒を一気にあおり、上唇もべろりと舐めてから、リュートがそのいとのように細い目を開いてゲンを見据える。
「……たまには湿っぽい話をしても、興が乗っていいんだろうな。
 今夜は飲み過ぎたかな、俺もずいぶんと酔っちまった」
 それはいつものことだろう、という声は、不思議なことに、この時この場の誰からも聞こえなかったのである。
 
 ◆◇◆

 聞くところによると、ゲンが好む清酒は元々はワカツで造られていたものらしい。
 決して度数が低いものではないが、いつもと変わらず健康に支障を来しかねないハイペースでぐいぐいと呑んで、これから思秋期に差し掛かりの剣豪は物語る。そう遠くはない昔、かつての朱夏の頃、ワカツが今のように怨恨と亡霊に塗れておらず、剣の道を極めようとした人々で活気や精気にあふれていた頃のことを。
「今でこそ世の中から腫れ物みたいにされちゃいるし、昔でもな、やれ剣のカードやら武士やらで物見遊山の客が珍しがったが、俺にとっては普通の――よくよく知っていて、何よりも懐かしみのある国だったよ」
 この場の誰よりも年齢を重ね、酒の量もまた多いゲンであるが、その喉を震わす声の調子は低い。低いが石床の室内に不思議と通り、常時はやかましく、今は口をつぐむ面々の鼓膜をすんなりと震わす。小難しい話は今ひとつ分からないだろうクーンも含めて全員にである。
「あんなことがあったのは、オレがまだ子どもの頃だったからな。
 その頃はヨークランドを出ようとは思わなかったし、母ちゃんも忙しくて余所へ旅行になんか連れてってなんてくれなかったからな。そういや、ああなる前のワカツがどんなのだったのか、知らないなと思ったんだ」
「……ボクは、壊れちゃったあとのワカツしかわかんないな」
「犬っころは生まれたばかりの頃だろうから、そうだろうな。
 リュートは……子どもの頃なんていうが、ワカツじゃあそれくらいで独り立ちするもんなんだぞ」
「おいおい、ゲンさん、そりゃ冗談だろう」
「いえ、聞いたことがあるわ。ワカツには“元服の儀”が現代まで続いていて、15才くらいで成人、そして生まれ育った家を出るという話よね」
「ふうん……。私がモデルを始めたのは17才の時だったけれど、それより早く自立するのね。
 ――つい最近までヨークランドを出たことのなかった誰かさんとは大違いだわ」
「そこでオレに話が戻るのかよ〜! そりゃないぜ!」
 ところリージョン変われば風習も変わる。
 人も土地もその空気も、時の流れの緩急さえ、場所が変わればまるで異なる。
 ゲンを始めとした、旅の連れたちの会話には混じらずに、ブルーは黙々と料理を食べて、時々酒を口にする。食事などただの栄養補給と言わんばかりに機械的な所作であり、他人の事情に興味のひとかけらも持たないというその姿勢は、少しでも彼の為人ひととなりを知っていれば当然だと思うものだ。けれど彼の耳は密かに、そして確かにゲンの語りに傾かれていた。
 在りし日のワカツの姿、重々しく威厳を保った城の佇まい。城下に住む人たちのまっすぐで清々しい気質、それから刀に掛ける情熱と誇り。
 二つ三つ、いやそれ以上に転がる徳利と、その中にあった酒の量だけ、ゲンは郷愁を口にしたのかもしれない。お猪口になみなみと注がれた、このオウミの湖のように透きとおる清酒の中に、今となっては朽ちていくばかりのあの寂しい城が見えたような気がした。
 熱っぽく、あるいは湿っぽく語られてはいるが、ブルーにとってのワカツとはやはり、剣のカードを得るための通過点でしかない。トリニティによって滅ぼされ、城はかつての威容をかろうじて残すのみ、今は物の怪の住む都。それが、彼が一日前に見たワカツの姿である。思うことはどうあれ、ゲン以外の誰があの街を見ても同じように映っているだろう。もう過去になった都市に余計な感傷を抱く彼ではない。
 ――ただし、故郷を想うその心境の幾分だけは、理解できた。
 己の髪とよく似た色をした、半透明の液体に、故郷の姿形をゆらりと浮かべる。
 色とりどりの煉瓦が敷き詰められた明るい街並み、その中心には大きな噴水があって、晴れた日には虹の輪ができる。多くの人々が行き交い、術士たちは魔術と国の将来について穏やかに論じていた。学院は目抜き通りから少し離れた場所にある。そこはいつでも静謐であり、教師も学徒も時間をただ術を研鑽するために使うのだ。全ては王国(キングダム)のために。王国に忠誠を誓い、その身、その心、その力を王国に捧げて生きていくこと。それは王国に生まれた者の義務であり、何にも勝る誉れでもある。
(まだ、それほど時間は経っていないはずなのだが。
 急いて悪いことはない。一刻でも早く、帰らなければ。
 …………帰りたい、早く、王国キングダムに、王国のために)
 自らの生きる道も、そのために何もかもを踏みつぶしていくことにも、迷いはない。
 ブルーは、グラスにある蜂蜜酒の残りをひと呑みする。
 文字通り、蜜のような甘ったるさの中に、ほんのひとつまみの香辛料(スパイス)のようにツンと鼻を突く辛味があって、それから酒精アルコールそのもののほろ苦さがじんと舌の上に広がった。底にへばりつく氷のひとつだけを頬張って、思い切りかみ砕く。そうすれば甘味とともに、熱も雑味も溶けて水になった。
 丸皿に盛られていたリゾットもすっかり空になったので、未だに騒ぐ面々を尻目にして、ブルーは席を立とうとする。音も気配も可能な限り殺して、静かに、気づかれないように。
それは連れの面々への気遣いのようであるが、実のところは厄介払いである。
 その時。
 爪先に弦が弾かれて低く震える。節々の丸い、いかにも男の無骨な手で、弛みなく張られた何本もの弦糸がそれぞれ異なる音階で響き、とある旋律の形を成す。
 ヨークランドの長閑のどかな調子でもなく、一定の律動リズムで刻まれるマジックキングダムの調べでもない。特徴的な和音の構成と音の刻み方は耳慣れたものではないが、障りにもならない。むしろ、心地がいい。
「オレは、ゲンさんが話した頃のワカツは知らないけれど、歌は知っているんだぜ」
 いかにも得意げに言って見せてから、リュートがやや荒っぽく弦をかき鳴らす。
 すると、当たり前に旋律も揺らいだのだが、そこに明朗なテノールが加わる。どこか憂いを帯びた撥弦楽器リュート の音色、そのひとつひとつはひどく弱々しいが、力強い歌声と合わされば、互いを引き立てて調和する。
 絶えることなく流れ続ける弦の調べ、張りのあって高らかに反響する声容、その二つが描く線は――歪んでいた。
 端的に言ってしまえば、音痴、ということである。
「リュート、お前、ほんっとうに唄は下手くそだな、仕方ねえ」
 何が仕方ないのか、とブルーが口には出さずに内心で思うよりも先に、ゲンが椅子どころか机まで蹴っ飛ばす勢いで立ち上がる。どこから持ってきたのか、清酒の空き瓶を、さもギターであるかのように抱えて歌い出す。長年の間、酒に焼けた喉からは出てくる声に濁りはあるが、たどる旋律はリュートのものより余程正確だ。そもそもにして、ワカツの唱歌であるので、それは当然のことなのだが。
「なんだか楽しそうだねー!」
 男二人が騒ぎ出して、この獣が黙っているだけのはずがない。
 目をぱちくりと瞬かせてから、クーンがぴょんぴょん飛び跳ねて、その尻尾をリズミカルに揺らす。リュートやゲンに続いて声を張り上げるが、音も調子も取れていない、ただのテキトーな賑やかしである。しかし、何とも不思議なことに、まだ幼い獣の鳴き声は不協和音にならず、二人の歌声の隙間を埋めるように溶け合う。リュートやゲンよりもずっと高らかで澄んだ声だからかもしれなかった。
 さて、ろくに常識も知らぬ獣がはしたない真似をすれば、半ば保護者として同行しているこの女の檄が飛ぶ。これまで似たような事例は数知れず、クーンが涙目になったことも幾多。
 しかし、今宵は久方ぶりに口にした酒のせいだろうか。それとも、積みに積まれた愚痴や不満を女同士でぶちぶちと潰してどかんと崩していったからか、メイレンの表情は穏やかだ。その隣で座するエミリアもまた、にこにこと笑顔を浮かべていて、明らかに上機嫌である。女二人で合いの手まで入れる有り様である。
 くだらない。彼は単純にそう思った。
 くだらない。そういって立ち去ることは、とても簡単なことのはずだった。
 またも始まったどんちゃん騒ぎ、それを見ていたか知らんぷりを決め込んだのか、それとも客商売の悲しい本性か。傍観している彼のすぐ横に、先ほどの店員が忍び足で近寄ってくる。
「お客様、お飲み物のお代わりはいかがですか?」
 少し考えてから、ブルーは答えた。
「……蜂蜜酒を、もう1杯」
 その横顔に、ふんわりと浮かんだ、ごく柔らかな微笑み。
 それを見ていたのは、店員だけだったのである。

    
  ←メニューに戻る


  ▼あとがき クリックで展開