すれ違いの街

 「ご利用ありがとうございました」とのお決まりの文句を背中で聞いて、色あせた赤のカーペットを踏んで進む。
 油が切れているのか、自動ドアはきいきいと軋んだ音を立てていた。
 開かれたガラスの両扉から、もわり、と濁った空気が流れ込んでくる。
 それから、人の喧騒、獣のわめき声、機械のエラーノイズがごちゃ混ぜになって聞こえてきて、一歩踏み出せば、蛍光色のネオンが目に飛び込んでくる。
「あー、やっと戻ってこれた……。
 とんだ災難だったけれど、悪いことばかりでもなかったわ。
 クーンもそう思うでしょう?」
「そうだね、メイレン、とっても楽しかったね」
 大層疲れた様子のメイレンが、同意を求めるように背の低いクーンの頭を撫でて、そのつぶらな瞳と目を合わせた。しかしというか、やはりというべきか、どこかピントのずれた返事が来たので、メイレンは明らかなため息を吐いた。
 そんな保護者メイレンの心を知ってか知らずか、クーンはぎらりぎらりと断続的に瞬くネオンの電飾と、モンスターならではの長い指にはめた『指輪』の深秘的な煌めきを見比べて、にこにこと笑みを浮かべる。そこに、後ろから追いついたフェイオンがやってきて、ここでは指輪を隠しておけとたしなめられたのだった。
 なぜならば、ここはクーロン。
 人も獣も機械も、時には妖魔も行き交うすれ違いの街。
 物も情報も集められてはうずたかく重なるだけの積み木のような街。
 朝昼晩の境目はなく、善悪の別もない、何もかもが入り交じる玉虫色の街。
 たとえば明らかに平穏なリージョンで生まれ育った者とか、あるいはトリニティの秩序の下で過ごしてきたのであれば、この混沌とした街の臭味に眉をひそめるのかもしれない。
 クーンの場合はといえば、この街を案外気に入っていた。
 マーグメルとは全く異なる場所であるがゆえに、である。
 今まさに終焉おわりを迎えようとしている放浪の領域リージョン、マーグメル。大昔は、誇らしくなるほど美しい場所だったらしい が、現在では見る影もない。だが、どんな姿をしていようとクーンの故郷であることには違いない。そして、大昔も今現在も退屈なところであることもまた、違いないだろうと、人混みとゴミくずの隙間をのろのろと練り歩くクーンはふわふわとした頭で思う。
 長老の仰せにより、指輪の兄弟たちを探す旅に出たクーンだが、それまではマーグメルより外の世界に出たことがなかった。
 マーグメルで生まれた獣達モンスターのほとんどはマーグメルで生きてマーグメルで死ぬ。親から子、子から孫へ継がれ繋がる営みに変化はない。それでも、不平不満を漏らす者は皆無だった。そもそもにして、外に出たことがないのだから当たり前のことである。
 滅び行くマーグメルを救わねばならない。その心は、戦いの度に姿を変えていくクーンの芯となっている。
 ――だけれども、あらゆるモノに出会えるこの街を、四方山よもやまのコトに触れられるこの旅を、クーンは単純に好きだなと思っている。マーグメルで同族ラモックスたちと一緒にいただけでは、目にすることすら叶わなかった物事に、既にいくつも出会っているのだ。
 それは、とってもワクワクして、すっごくドキドキして、とびっきり楽しいことなのである。
「ねえねえ、メイレン。次はどこに行くの?」
「そうねえ、あんなことがあったから、しばらくシップには乗りたくないんだけど……そうも言ってられないわね。
 シュライクには古くからの指輪の伝説があって、ヨークランドの富豪は指輪を持っているらしい。お金があればマンハッタンで指輪が買える――」
 真っ暗なクーロンの空を見上げて、メイレンは『指輪』の噂を口にする。まるで唄うように高らかに、まるで少女のように目を輝かせながら。
「うーん、それじゃあ……」
 その噂を半分程度であれば理解しているクーンが、色々いろいろと考えて、次の行き先を告げようとした時。
(――――あれ?)
 鼻の粘膜にこびりつく古いオイルの匂い。少しばかり雑音の混じるモーターの駆動音。古くさくて堅苦しい話の仕方。
 そのどれにも、覚えがある。新しくて懐かしい、スクラップでの記憶がそのままに蘇る。
 振り向いた先にいた機械メカに、クーンは親しげに話しかけた。
「あれー? 久しぶりだね! 元気だった?」
 
◇◆◇

 比較的短時間の休眠状態スリープモードを解除。
 各種センサーが有効アクティブとなり、視覚、聴覚、触覚、臭覚、他各種機能が集積中枢コアに現状を情報データに変換してから送り込む。解析の開始から終了までは1分とかからないが、それでも以前・・と比較すればかなりの低速である。
 現代・・での世界リージョン標準時情報は取得しているが、位置情報の取得及び更新は何回か試行トライしても不可能であった。機体ボディあるいは型式タイプに対応していないためであろうと推測されるが、それ以前に衛星測位システムが構築されていないからかもしれなかった。
 長い−−あまりにも長い眠りの後、そこにあったのは見知らぬ世界だった。
 T260Gは、休眠状態に入る直前の記録メモリーを呼び出す。
 スクラップで出会った中島正太郎が経営する中島製作所に赴き、T260G自身の調査を依頼した。紆余曲折あったが、機体の調査やメンテナンスを受けた後、更なる情報を求めるためにクーロンに戻ってきたのである。
 さて、T260Gがこれまでにあまり気にしなかったことであるが、人間ヒューマンモンスターは定期的に休息を取らなければならないようである。およそ12時間前にクーロンに到着し、そのままマンハッタンまでのシップへの搭乗手続きを進めようとしたこの機械メカを、ゲンが止めた。せっかくのクーロンなのだから、酒くらい飲ませろという理由で。
 屋台で安酒をたらふく飲んで、いびきをかいて寝入ったゲンを宿まで運び、彼が目覚めるまでは出発できないと判断したT260Gは、エネルギー節約のために休眠状態スリープモードに入ったのである。ゲンを置いてマンハッタンに行く判断もあっただろうに、それをしなかったのは、T260Gがゲンを『仲間』と認識しているからか、それとも別の理由からか。それを知る者もその術も今はない。
「現在位置、クーロンと確認。
 コンディションチェック開始……B級優先任務の遂行に支障はなし、ただし早急な機能性向上を要す」
「…………んだよ、朝からうるせえな」
「ゲン様、おはようございます」
 色も匂いも乗らない電子音声で状況確認をしていたところで、カビ臭いマットレスに寝かされただけのゲンが、身をよじらせてから起きあがる。現在の時刻は0900、人間の感性からすればやや遅めであるが、まだ朝と呼んでいい時間だろう。T260Gは朝の定例句で挨拶をしてから、ゲンの呼気を測定した。
「呼気中アルコール濃度、正常値内に移行。ゲン様の活動は可能と判断します」
「お前本当にうるせえなあ! さっさと起きろってことか!」
「そのような事実はありません」
「わあったよ、起きる。
 今日はマンハッタンに行くんだろう、なるだけ早い方がいい」
「――ありがとうございます」
 ゲンは身なりを整えてから獲物の手入れをし、T260Gは改めてシステムの自己診断を走らせた後、装備武具の状態コンディション)を確認する。それから宿を出てシップの発着場に向かう。
 扉とはいえない布の仕切りをくぐり、カメラに射映されるクーロンの路傍。人間や獣、それから機械が入り交じる往来。所狭しと群れたビルはどれも薄汚れている。まだ朝の時間帯であるが、陽光は届かない。大気中の二酸化炭素濃度は他のリージョンよりも高く、また有害物質も含有しているようだ。
 前回に訪れた際と、解析結果はほとんど変わらない。
 T260Gは、クーロンとはおよそこのような街であると結論づけた。
 大規模なドックがあるため、物流や情報の交点となっており、大変活気のあるリージョンであるが、この機械メカにとっては、どこまでも見知らぬ土地である。
 それはこのクーロンに限らない。推測するにおよそ3000年という悠久の眠りから目覚めた時、そこはT260にとってほとんど未知の世界に変わっていた。そしてT260Gと改めて名付けられ、今は未開の現代を旅している。与えられた任務を果たすために、存在理由の証明のように。
 モーターの駆動音に時折ノイズが混じることをマイクで認めながら、T260Gはゲンとともに発着場へと歩いていく。
「あーあー、寝過ぎちまったなあ。これじゃあシップに間に合わねえかな」
「アニキ、寝癖がついたまんまだよ!」
「おっ、悪いなサンダー」
 目覚めてからこれまでの記録と、たった今聞こえてきた肉声との声紋データを照合する。片方、モンスターと推測される野太い声と一致するデータはないが、もう片方、人間ヒューマンのものと思われる間延びした声は、とある人物と99パーセント以上の確率で同一との結果が出た。
 カバレロの工場に乗り込んだ際に協力してくれた、非力だがどこか頼りにしたくなる……機械であるT260Gでさえそのように思考してしまう青年のものである。
「お久しぶりです、リュート様」
 久しぶりだね、というまた別の声が真横から聞こえてきたのと、T260Gが青年に話しかけたのは、ほとんど同時のことだった。

◇◆◇

 故郷のヨークランドを出て早や数ヶ月。
 諸々の事情で一度はかのリージョンへ戻ったものの、ぎりぎりのところで自宅には帰ってはいない。
 幼少時に旅行した覚えもなく、また進学などのために外のリージョンへ行くという選択肢は思いつきもしなかった。
 よって、茣蓙ござで寝転がり、シミや汚れがへばりついた天井をぼんやりと目にして、あー、とか、うー、とか、とにかく言葉にならない声で旋律にならない音を発し続けるこの男が、あらゆるリージョンを旅すること自体、もう壮大な冒険のようなものである。
 事実、妙ちくりんな遺跡に立ち入っては、現地のモンスターに追いかけられて九死に一生を得て、明るくて綺麗な景色だと思って街中の研究所に立ち寄ってみれば、背筋がぞーっとする思いをし、そしてカジノのリージョンに行っては有り金全部スってしまうなど、たった数ヶ月でずいぶんな冒険をしたのである。今まで命があるのが不思議なくらいだ。
(どのシップもだいたい無料タダで乗れるから助かったもんだ)
 気づいたら財布にほんのちょっとの小銭しか残っておらず、その小銭でも十分飲み食いや寝泊まりできるクーロンにやってきたという訳である。
「アニキ、そろそろ朝ご飯を食べたらどうだい?」
 のっしのっしと巨体を揺らし、梁に頭をぶつけて星を散らしながら、先に起きていたらしいサンダーが、寝いぎたないリュートに声をかけた。弟分であるこのモンスターをも置いて、故郷を出たリュートであったが、一度戻ったときに懇願されたため、連れてきたのであった。 実際のところ、こうやってだらしないリュートの世話を焼いてくれるから、ありがたいものであるが、その有り難みを『アニキ』が感じているかどうかは分からないものである。
「なんかウマそうなものでもあったか?」
「ほら、鶏の丸焼き。いい匂いだったから買ってきたよ」
 でかい図体の片手には、プラスチックのパックに押し込まれた茶色い何かが乗っていた。
 そういえば、昨日通りがかった露店では鶏が絞められてたなとリュートは思い出す。その横では、水飴を塗ってからぱりっと焼かれた鶏肉が、実に香ばしい匂いを立てて腹に直接語りかけていたことも。
「サンダー、気が利くなー。んじゃ、朝飯にするか!」
 一般論として、朝から脂の滴る肉類は重いとされているが、そんなことは気にせず、トゲトゲとした小骨が多くて、時に苦く痺れる内蔵に当たるが、肉質柔らかでちょうどよく焼けている鶏肉を二人で貪り食う。
 ちょっとした金で、こんなご馳走にありつけるのだから、クーロンはすごい都会なのだ。酒蔵や沼地、それからカラっと乾いていて何にもない原っぱなどしかないヨークランドとは違って、ここには何でもある。しかも、どれもこれも手に届かない訳ではない(どこかの気取った都市と違って!)。ならず者も多い土地リージョンであるから、複製品パチモンや横流し品もあるだろうけれど、実用に耐えうるものならば問題ない。
 力こそすべて、金さえあれば世渡りができて、どんな経路を通っていようが、使えさえできれば問題ない。
 どこか農薬あるいは別の添加物の、渋くて少しだけ辛い味を感じながら、リュートはクーロンという狭苦しい街の懐の広さを感じていた。
 楽しい街、面白い街、飽きない街。だけど、ここに根を下ろすことはないだろうと考えながら。
 だって、ここにはウマい酒がない。ここで飲む麦酒ビールも悪くはないが、代々ヨークランドで造られてきた酒の数々とは比較にもならない。
 それに、ここにいると時々、息苦しくなる。人もモノもひしめいて、賑やかなことこの上ないが、空気が足りないと思うことがある。田舎ではそんなこと、思いもしなかったのに。
 それから、ここの人たちは、親切に見えて剣呑だ。金を払えば一晩は安全、力があれば堂々と往来を歩くことができる。だけど、そのどちらも持たない弱者は、強者の食い物にされるのだ。
(おっかねえ街だよな、ホント)
 リュートも初めてこの街に着たときは、裏通りで身ぐるみを剥がされそうになったものである。護身用に持っていた剣を振り回していたら、何とか撃退できたものの、もしあの時にやられていたら、今頃こうして鶏の骨にこびりついた肉まで舌でこそぎ落とすような真似はできまい。首を落とされて臓器を抜かれて、それでお終いである。
「あー、食った食った。食ったとなるとまた眠くなるな〜」
「だ、ダメだよアニキ、今日はマンハッタンってリージョンに用事があるんじゃなかったのかい?」
「ん、そうだったな」
 マンハッタン。ヨークランドを出たリュートが初めて訪れた外のリージョン。洗練された都会の街だ。ここで食べたハンバーガーが無性に食べたいと思って行き先を決めたリュートである。それから、同じファストフード店で出会った、レオナルドなる男にもう一度会いたいと思ってた。何となく馬が合うような気がする。
 このクーロンで風は滅多に吹かないが、風の吹くまま、思うがままにリュートは旅を続けていく。行き着く先に何があるのか、まだ誰にも分からない。
 腹ごしらえを終え、一応程度に身だしなみを整え、安宿の暖簾をくぐる。時刻はもうすぐ朝の10時というところで、マンハッタン行きの第一便はもう出てしまっているだろう。もしかすると、第二便にも間に合わないかもしれない。
 やっちまったなー、などとは口にするものの、先を急ぐ旅ではない。
 露店で何か掘り出し物でもあるか、冷やかし程度に見てやりながら発着場へ向かおうとしていた。
「クソ、待て、待ちやがれってんだ! 公務執行妨害だぞ!」
 目の前、それも文字通り目と鼻の先を、光線銃のきらめく光が駆け抜けていく。長い前髪の一部がじゅう、っと焼き切れて、タンパク質の焦げたイヤな臭いがリュートの鼻を突いた。
 それから、怒声、というよりかは罵詈雑言をいくつも並べ立てた男が、まさしく全力疾走でリュートが一歩踏みだそうとしたその道を駆け抜けていく。……時には他の通行人をも吹っ飛ばしながら。
 黒い皮のジャケットに焦げ茶の髪を持つその男に、リュートは見覚えがあった。
「……あの人の世話にはなりたくねえな」
 確か、これから向かおうとしている、マンハッタンで出会った警官である。

◇◆◇

 よくある事態ことである。
 リージョン界は、トリニティが作った秩序の下、一見は連帯しているように見える。だが、その実体はちぐはぐで、一枚皮をめくれば腐敗が髄まで侵食し、賄賂横領などの不正が横行している有様である。
 特にこのクーロンは、トリニティの傘下にはあるものの、その威光はほとんどと言っていいほど届かない、ろくでもなしの魔境だった。
 そんな無法地帯であるならば、犯罪者が逃げ込むにはうってつけなのである。たとえば、強盗殺人を繰り返した凶悪犯などは、逃げ込み先のリージョンにここを選ぶであろう。
(その考えが甘いんだよな〜)
 ヒューズはハンドブラスターの出力を麻痺パラライザーモードに切り替えてから、下唇を歯で噛みしめつつ、携帯端末を操作して情報を呼び出す。その表情はどこまでも堅く真面目に見えて、その実、纏う雰囲気は楽しげである。その落差を感じ取ったのであろう。愛用の剣を手入れしていたサイレンスが顔を上げ、ヒューズの瞳を覗きこもうとした。
「何だよ、あんまり寄るなって。
 ただでさえ、お前がいると目立つっつーのに」
 そう言われたのだが、彼の言葉の意味がよく理解できず、サイレンスは小首を傾げたのだった。その仕草でさえ、道歩く女を引き寄せてしまうのに、本人にその自覚がないのだから始末に負えない。
 成り行き上、オーンブルへの捜査を進めていたサイレンスを回収し、その足でクーロンへ来たのだが、順番を逆にすればよかった、と内心だけで愚痴る。この男、リージョン界広しと言えど人様の前には滅多に姿を表さない上級妖魔の男、見るからに華奢な容姿で腕も細いのだが、戦闘はかなりこなせる。否、それができなければIRPOの隊員には相応しくないのだが、一方で潜入捜査は苦手としていた。変装能力を持ってはいるのだが。理由は言わずもがな。
 それはさておき、情報探索を終えたヒューズは、改めてハンドブラスターを構え直す。ペンペン草も生えない、人ばかりの道端で武器おもちゃを掲げて歩くのは、この街でも褒められることではない。しかし、何せ相手は大量殺人犯である。加えてこちらは天下のIRPO捜査官とくれば、凶悪な犯人に対抗するためという立派な大義名分ができる。
 目立ちすぎないように、しかし、あくまで『それとなく』ブラスターの存在を主張しながら、階段を下る。降りた先の道が幾重にも分かれていて、サイレンスは目を瞬かせたし、ヒューズは明らかに苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
「まーた、道が増えているな、この街は……」
 この街の形は一定ではない。分かっていたことだった。
 建築基準法も道路法もない、いや、あっても守られる気配のない無法地帯である。突然建物が増えたり、道路が増えたり、あるいは埋め立てられたりトンネルができたりなどは、まあまあよくあることだった。
 こういうこともあろうて、最新版の地図を端末へダウンロードしたというのに、どうもそれすらも古いデータだったらしい。
 サイレンスがヒューズに目配せをする。どうする? と聞いているようだが、ヒューズはお構いなしに分かたれた道のひとつを選び、ズンズンと進んでいく。
「なあに、ゴールは分かっているんだ。
 それまでの過程は、この敏腕捜査官のカンで補うってところだな」
 胸を張るヒューズの所作をじっくりと眺めてから、サイレンスはふるふると横に首を振った。その直後に文句が飛んできたので、今度は己の耳を塞ぐ。こういう風に、いつだって自信満々なところが、ヒューズの長所であるのだが、根拠に全く乏しいこともある。
「何だ、お前、疑ってるな?
 『敵の敵は味方』ってことわざを知ってるか? 妖魔の世界じゃことわざなんて使わないだろうけどよ。
 今回はそういうことだ、いつもはすっげー厄介な組織とこと話を付けてある。腕前はお墨付きだぜ?」
 だからこそ、対峙するとなると痛えんだけどな、とヒューズは左肩を乱暴に撫でつけた。そこにはかつて、治りの悪い刀傷があったことを、サイレンスはよく覚えている。出血多量で死にかけて、この街の裏通りにいる医者の世話になった。サイレンスと同族のあの男の。
 この街の形は定まっていない。それは姿形だけの話ではない。今し方、ヒューズが吸い出したタバコの煙のように、移ろい変じていく。昨日の敵は今日の味方、その逆もまた然り。
 急造された道、道にもならない道を、ヒューズは口と舌を滑らかに回しながら、サイレンスはその名の通りただ黙って歩いていく。
 見慣れぬ道から、見慣れた交差点に出た時であった。
 死角となる曲がり角を曲がろうとしたところで、鉛の銃弾が打ち込まれる。威嚇目的だったのだろう。直撃はしなかったが、鼻頭をかすめたそれは、彼のスイッチをONにするには十分すぎた。
「…………そうかそうか、やっこさんから喧嘩を売ってきてくれるか。
 ありがてぇなあ。実にありがたい。
 手間がァ、省けるぜっ!」
 ハンドブラスターを最大出力殺傷モードに切り替え、膝のバネを使って思い切り跳躍する。宙に舞うこの男を狙撃すれば、実に呆気なく片は付くだろう。しかし、クレイジーヒューズと呼ばれる男の殺気をまともに真正面から受け止めてしまえば、足が竦み、手が震えることは必至である。
 少なくはない一般人もいる往来で、ヒューズはブラスターの引き金を引いた。こちらだって威嚇目的なのでおあいこである。
「公務執行妨害の現行犯だ! 他にも罪状は目白押しだ! 逮捕する!」
 正気に戻った犯人が、命辛々と逃げ出したので、もちろんヒューズもその後を追いかける。なにやら見知った人影を見たような気がしたが、それどころではない。
 だから、ヒューズは気がつかなかった。
 かつて、自らが持つ最大限の権限を駆使して、監獄のリージョンであるディスペアに送り込んだあの女が、ぽかんとした表情でこちらを見ていたことを。

◇◆◇

 この街での寝覚めは最悪だ。
 もう触れることも叶わない夢を見せつけられてから、否応なく現実が染み込んでくる感触が気持ち悪い。
 曇り汚れが染み着いた鏡の前で、豊かなブロンドの髪をとかしながら、エミリアはいつもと同じ言葉フレーズを頭に浮かべた。
 与えられた部屋は辛うじて個室だったけれど、モデル時代に住んでいたそれとは比べものにならない。申し訳程度に白く塗装された壁は銃跡の模様がいたし、テーブルやクローゼットのあちらこちらにはもちろん傷や凹みがある。
 この部屋をヴィリディアン緑色にでも塗り替えて、家具にはミモザ黄色を吹き付ければ、草原に花が咲いたように見えるんじゃないかしら。
 だけど、その作業の手間を考えれば、鬱屈とした気分が増した。
 やっぱりなしかな、と独り言ち、エミリアは手慣れた様子で頭髪をセットしていく。
 ゆるく波打ち艶を放つブロンドは黄金を思わせる。
 ぱっちりと開いた水色の瞳は、このリージョンでは拝むことのできない空のよう。鼻はつんと高くて、三日月の形を描く唇は厚すぎず、かといって薄すぎもしない。
 カーキ色のジャケットに隠された身体は、数多の男性を虜にし、多くの女性の憧れとなったスーパーモデルそのものだ。バランスのよいサイズ感の胸に、抱きつきたくなるようなくびれ、きゅっと引き締められた臀部、そして長くすらりと伸びた両足、どれもこれも一級品である。
 そして何より、モデルとして常に最前線を引っ張ってきたその自信、その矜持を今でも当然のように纏う彼女は、この薄汚い街でも一等星のような輝きを放つ。
「あら、エミリア。起きてたの、せっかくのオフなのに」
「おはようアニー。オフだからこそ早起きしたのよ、勿体ないじゃない」
 このろくでもない組織ところでの年下の先輩(もはや気分は同僚である)、アニーがノックもせずに部屋に入り込んできた。それで気を悪くするエミリアではない。
 ほとんど足音を立てずに座るエミリアの傍らへ近寄り、小さな背中からなだらかな腹部へ、絡むように抱きつく。鏡の中のアニーはいたずらっぽい笑みを浮かべていて、少し癖のある髪といい、しなやかな体つきといい、どことなく猫っぽい。そして猫と言うよりは、警戒心の強い山猫と言う方がより正確ではある。このねこは、思わず触れたくなる毛並みを見せつけてくるのに、にじり寄る輩の喉笛を、その研ぎ澄まされた牙で掻き切るのだ。恐ろしいことこの上ない。
 そんなおんなだが、大輪の花のような彼女のことは意外なほど気に入っていた。太陽が燦々と降り注ぐ明るい場所で、よく肥えた土の上で、清らかな空気の中で咲いてきた、まるで真逆のおんなを嫌ってはいなかった。
「ねえ、エミリア。今日はどこかに行くつもりなの?」
「あまり考えてはいなかったけれど、クーロンから外には行こうと思ってたの。
 いくらオフと言っても、ここにいたらいつ仕事が降って来るか分からないでしょ。だから、今日はとっとと逃げちゃおうと思って」
「私も着いていっていい?」
 アニーの指が、ブラシを握るエミリアの手の甲をなぞる。人懐こい頬が、エミリアのばら色の頬にくっつく。こういう時のアニーには注意をしなければならない――。
「何が狙い? アニー」
お姉さん・・・・、何かご馳走してよ。
 この前の稼ぎはもうなくなったし、さすがに賄いは飽きてきたんだよね」
 アニーの事情は、エミリアもそれなりにではあるが知っている。
 あくまでもそれなりに、である。だから、同情心は見せられない。
 こういう時は、思いっきり口角を上げて、浅ましい心を笑顔で覆い隠すのだ。
「……今日は、シュライクに行くつもりなの。
 そこにある京料理店なんてどう? チーズやクリームばかり食べるんだったら、胃が重くなるでしょう」
「もう一声。あっさりした料理は助かるけど、明日からの任務を考えると肉も食べておきたいな」
「じゃあ、夕ご飯は洒落たものじゃなくて、どこかの食堂にでも行きましょう。まさか、ステーキでも食べたい?」
「大丈夫、さすがにそこまで食べたら豚になっちゃう」
「ぶた? アニーが? 想像もできないわ」
 エミリアがぷっ、と息をこらえきれずに笑い、つられてアニーも笑い出す。
 二人で声をあげて笑っているところに、外側からノックする音が聞こえてくる。エミリアが弾んだ声のまま返事をすると、いつもと変わらず落ち着いた様子のライザが現れる。
「アニー、エミリア、二人ともおはよう」
「おはよう、ライザ」
「ライザ、これからアニーとシュライクに行くんだけど、ライザもどうかしら?」
 一人より二人が楽しいし、二人より三人の方がもっと楽しい。
 仕事のときのみならず、オフでも行動をともにすることが多い三人である。ここでライザを誘うのは、自然で当然の流れである。
「残念ね、とても行きたいのだけれど、仕事が入ってしまったの」
 その流れを止めることに、少々の罪悪感は沸いたものの、その程度では動じないのが鉄の女だ。
 肩をすくめるライザに、アニーは口をとがらせて、エミリアは少しだけ頬を膨らませる。どれも見せかけの仕草、曲がりなりにも自らの特技で食べている面々なので、『仕事』を軽んじることはない。
「――その割には、なんだか楽しそうだね、ライザ」
「まあ、ね」
 とは言え、あんまりにも急に仕事が入れば、反発してしまいなくなるものだが、肩のあたりで切り揃えた頭髪と手櫛で整えるライザからそういった雰囲気は感じられず、さすが鉄の女、と拍手で讃えたくなるが、あるいは別の意図も含まれているのではないかとエミリアは勘ぐってしまう。
「それじゃ、アニー、行きましょうか。
 ……ライザ、頑張ってね」
 二重の意味をこめて軽く手を振ると、ライザも手を振って返す。
 あの朴念仁にはいつか鉛の弾をくれてやろう、とエミリアが思ったかどうかは定かではない。
 それはさておき。
 グラディウスの隠れ蓑となっているイタ飯屋を出ると、ゴミ箱をひっくり返したようなクーロンの街並みが眼に飛び込んでくる。
 エミリアもその雑多な景色の中に入り込み、ヒールを鳴らせて下り階段を軽やかに降りていく。
 降りた先で嵐のような、もしくは迸る電流のような騒ぎがあっという間に目の前を駆け抜けて行ったが、この街ではよくあること、日常茶飯事なのであった。
「ずいぶん肝がすわって来たね、エミリア」
「そりゃ、何ヶ月もここにいるんだもの、いい加減慣れるわよ」
 どこのリージョンの、誰が言ったか、住めば都。
 いつでも人にあふれて活気があり、とびきりの高級品を望まなければ大概のモノは手に入る。陽の光が届かない代わりに、電飾の光が途切れないから常に明るく、どちらかと言えば寒冷な気候の土地らしいが、人々の熱気と相殺されてか、暑くもなく寒くもなく過ごしやすい。
 かつて、都会も都会もマンハッタンで暮らしていたスーパーモデルのエミリア、その頃の彼女にとってみればクーロンなど、得体が知れず縁もない場所でしかなかったのだが、人間というのは案外しぶとく、どんなところでも生きていける適応力があるらしい。
 この手で倒さなければならない相手がいる。確かめなければならない真実がある。その先に待ち受けるのがとんでもない皮肉であっても、もう彼女は進んでいくしかない。
 いつでも胸のポケットに入れている貴石、手に取らずとも硬さや色の深み、縞模様まではっきりと覚えているそれの存在を常に感じながら、エミリアはいつもと同じく賑やかで、今の彼女自身が生きる場所であるクーロンの街を歩いていく。
 すっかり馴染んだ夜色の街、行き交う虹色の人々、その中でもいっそう鮮やかで、どうしても人目を惹くエバーグリーン永遠の緑がエミリアの目に入る。
 モデルであったエミリアとは、別種の魅力をその身に纏わせる娘。
 少年のような体躯に、少女そのもののしなやかな精神こころ、その瞳の赤さは人間の血のようだが、見つめられるとくらくらする……ような気がする。
 冴え冴えとした配色と、前時代的な衣装にはよく見覚えがあった。
 壁に寄りかかる少女に、エミリアは努めて明るく声をかける。
「こんなところでまた会うなんて。どうしたの?」

◇◆◇

 あの空気も水も淀んだところから逃げて、どれくらい経っただろうか。
 ここに来てからは、何日くらい。
 指折り数えてみてから、アセルスはため息をついた。
 人も機械も獣も多い街である。もしかしたら、妖魔もいるかもしれない。どこに追っ手が潜んでいるか分からない、いつ襲われるか分からない。
 木を隠すならば森の中という。
 あらゆる土地リージョン、あらゆる年代、そしてあらゆる種族が寄り集まるというクーロン。ならば、雑踏に紛れることで少しは時間が稼げるかもしれない。
 そんな考えから、以前に知り合った女性ひとに何かあったらクーロンにおいで、と言われたことを思い出して、クーロンに来てはみたものの、どうしてか落ち着かない。
 前髪をかき上げ、もう一回、今度は少し長めに息を吐く。
 視線を落とせば、まだら色に染まったコンクリートの地面を、ハイヒールだったり革靴だったり、あるいは毛むくじゃらだったり金属質だったりもする足が遠慮なく踏んづけていく。よく見ると、コンクリートには小さなヒビがいくつも入っているのが分かった。やや古くて痛んでいるコンクリートらしい。そうでなくても、人口密度の高い街だから、あらゆるモノの磨耗が激しいのだろう。
 アセルスの足は、彼らとは違った。華美な飾装のついたブーツには、ただの綿や絹などで造られている訳ではなく、妖力を帯びた金属が織り込まれている。泥や埃を弾き、常に美しい姿を保つ靴だ。永遠(とわ)を生きる妖魔と同じように。
 木を隠すなら森の中。人を隠すならばクーロンへ。
 だけど、何者でもないアセルスが、この街の色に染まることはできないかもしれない。
 そのことに思い至り、三度みたび、今度は熱く重々しい息を吐き出すアセルスである。
 あんまりにもため息の数が多いので、見かねたのか……いや、この女性に限ってそんなことはあるまい、純粋にいたわりの心を持った白薔薇姫が、うつむくアセルスの両手をぎゅっと握った。しっとりとしていて滑らかな指の感触が、剣を使い始めたからか、アセルス自身の硬い指に伝えられる。真白の花弁のいくつかが舞って、それから馥郁とした香りが漂う。
「いけませんわ、アセルス様」
 咎めるような言葉遣いだが、語調はどこまでも柔らかで優しい。
 頭部で咲き誇る薔薇と同じくらい白い肌、髪と瞳は対照的に黒い。
 なだらかな線を描く肢体はどこまでも女性らしく艶があり、その振る舞いはろうたけていた。いかにも妙齢という見目姿であるが、その実、アセルスよりもずっと長い時間ときを過ごしている寵姫ようまなのである。
「これは私がまだ人間だった頃に聞いた話なのですけれど、あんまりため息をつくと、幸せが逃げてしまうそうですよ」
「――――なに、それ」
 まさか、このひとが冗談を言うとは。
 思いもしなかった発言に、アセルスは思わず顔を上げた。
 うふふ、と微笑みを保ち、鮮やかな緑の瞳をしっかりと見つめながら、白薔薇姫は続ける。
「幸せが全て去ってしまったら、その次には石になってしまうそうですよ。
 ……アセルス様が石になってしまうなんて、私は嫌です」
「白薔薇……」
「どうか、アセルス様お一人だけで悩まないでください。
 もし叶うならば、私にも教えてください。
 私が外の世界へ出るのは、寵姫になってからは初めてのことです。分からないことばかりですけれど、アセルス様の苦悩の一厘でも分かち合うことができれば、幸せに思います」
 目と目を合わせ、鼻頭同士が擦れそうな距離、吐息にまで触れられそうな近さで白薔薇は乞い願う。
「……私、けっこう、焦っているのかな」
 その真摯で、どこか潤んでいるような黒い瞳でこのように縫い止められていると、人間と妖魔、その狭間にある心、そこに重ねられたおりやしこりが溶けていくような気がした。
 それに伴い、表情筋もゆるく解れていったらしい。すうっと息を吸い込めば、同じく凝り固まった全身の筋肉に酸素が行き届くような感覚を覚え、短く吐けば年頃の娘らしい、はにかんだような微笑みがアセルスの顔に浮かぶ。
「いいえ、そんなことはございません。
 しかし、アセルス様の時間は動き始めたばかり。戸惑ってしまっただけですわ。
 ……やっと、笑ってくださいましたね、アセルス様」
「え?」
 握りしめた両手をほどき、細く長い指を今度はアセルスの頬へと延ばす白薔薇姫。転がる鈴のような彼女の声で、アセルスは気づいた。ずいぶん長い間、笑っていなかったことに。もしかすると、突如理不尽な運命がその身に降りかかってきたあの時から、全く笑えていなかったのかもしれない。
 目の前にいるこの人は、いつだってアセルスに微笑んでくれているというのに。
「アセルス様、普段は凛々しくいらっしゃいますのに、笑顔はとても可愛らしいのですね」
「か、かわいらしいって、そう?」
「ええ、私は……情けなくも、今はアセルス様に守っていただいている身です。けれど、そんな顔をされているアセルス様を、私は守りたくなります」
 12年前、ただの人間として安穏と暮らしていた頃でも、アセルスはどちらかと言えばマニッシュな女の子で、可愛いだとか守りたいだとかそんな科白せりふ、言われたこともなかったのである。
 はにかんだ頬に明らかな朱が差して、アセルスは訳もなく恥ずかしくなった。
「なんだかくすぐったいな、でもありがとう、白薔薇。
 ――こんなところにいるのも何だし、私はなんだかお腹が空いてきたような気がするの。
 一緒についてきてくれる?」
 妖魔は見た目こそ人とよく似ているが、実態はかなり異なる。
 永遠の美しさと不滅の魂を持つ彼らの身体には、新陳代謝は不要らしく、よって食事という行為そのものも無意味である。ただし、それに付随しての交流手段コミュニケーションの効果はある。それすらも無用と切り捨てる妖魔も多いだろうが、寵姫の中でももっとも優しいとされる白薔薇姫にとっては、十分意味のあることである。
「もちろんですわ、アセルス様。どちらに行かれますか」
「人を頼るのはあまりよくないことかもしれないけれど。
 でも、確かあの人が高台にあるレストランにいるとか言っていたな。
 イタ飯屋だって話だけれど」
「アセルス様、"いためし”とは何ですの?」
「ああ、そうか、白薔薇はまだ食べたことがないんだね。
 イタ飯っていうのはね……」
 人も獣も多い道を、アセルスは白薔薇姫と肩を並べて歩いていく。
 時折何体かの機械とすれ違って、そのたびに何のかんのと言われるけれど、気づかない振りをした。別に機械は悪くないが、アセルスとてただ懸命に生きているだけなのだ。
 そう、ここにいる者たちは、みな全て等しく生きるために生きている。
 傷つけば薬を塗り、壊れれば補修して、ヒビが入ればそれを埋める。
 そうして空気が流れ、街は動き、クーロンというリージョンそのものに血が巡る。
 一瞬とて同じ瞬間のなく、幾千幾万もの刹那が重なってできたこの街を、アセルスは嫌いではないな、と思った。
 その次の刹那のこと、ただの擦れ合い、すれ違い。
 懐かしいような、よく見覚えのあるような、そんな人影との行き交い。
 それこそ12年前の話、まだ小さくてちょっと生意気、何より腕白なあの子との過ごした日々は、アセルス自身にとっては割と最近の記憶である。
 一眠りしている間に、その子はずいぶんと大きくなってしまったのだけれど。
 まぶしく、もう直視はできない記憶の中心にいる男の子の名前を呼ぶ。
「烈人くん……」
 その名を呼ばれたことにすら気づかず、懐かしい人影は雑踏に紛れて、見えなくなってしまった。

◇◆◇

 この街には一応、何度か来たことがある。
 しかし、それはキグナスの機関士見習いとして働いていた頃、仕事の一環でたまたま立ち寄っただけのこと。
 キグナスはあらゆるリージョンを巡る豪華客船だ。乗客の乗降のためにシュライクのような住宅地の多いリージョンに立ち寄ることもあるが、およそはバカラやマンハッタンといった観光地を回る。
 クーロンは観光地と住宅地の間といったところか。トリニティが管轄するリージョン群のちょうど中心地に位置していること、そのために昔から交易が盛んであること、来るもの拒まず去るもの追わずの文化が根付いていることなどから、観光客としてこの地に降りる者も、逆に乗客としてキグナスに乗る者も多い。
 そういう理由から、レッド自身もこの街にはよく来たことがあるから、勝手が分かっている。そのはずだったのだが、キグナスの乗客と同じく、あくまで『お客さん』としてこの街を訪れていただけに過ぎなかった。
(ブラッククロスの前線基地、絶対にこの街にあるはずだ……)
 屋台で熱々のラーメンをすすり、その次に蒸したての肉まんにかぶりつきながら、レッドは早々に行き詰まった、まだ短い彼自身の旅路を思い返す。
 キグナスに乗っていた頃に集めた情報を整理すると、この地にブラッククロスの何らかの施設があることは、レッド自身の中では確定事項だった。彼の旅に無理矢理同行させられた医療メカのBJ&Kからすれば、不確実な情報や憶測、飛躍論理が多くて『ある』とは言い切れない、とのことなのだが、レッドはそんな機械の推論を無視する。
「シーファー商会とシュウザー、戦闘員のやつら、あの巡礼者……。
 これだけ揃ってて何もないはずがないだろ」
「それらの要素に関連性がありません。全て偶然だった可能性があります」
 全て偶然の可能性の方が高い、と言いたかったが、破壊の憂き目にあっては元も子もないので、BJ&Kは可能な限り柔らかく自身の意見を述べた。が、やはりレッドは不服だったようで、目を釣り上げてBJ&Kを見下ろす。
 自身の機体ボディの修繕をしていたBJ&Kは、機械ではあるが人間の感情の機微のいくつかは理解しているらしい。ここに『気まずさ』を感じ取り、しばしの沈黙後、レッドにとある提案をする。
「クーロンは情報の集積地です」
「そんなことは分かっている。だから聞き込みをしてるんじゃねえか」
「利害関係にない相手に本物の情報を渡す人間はいません。
 そのため、より有力な情報を得るためには、金銭で取引するのがもっとも有効だと考えられます」
「つまり、金ってことか」
「はい」
 修繕を終え、今度はオイルの補給をするBJ&Kの正論に、レッドは唸った。
 金の持ち合わせは、正直なところそれほどない。元々キグナスでは安月給だったし、キグナスを出た後は路銀や装備を整えるために使ってしまっている。これだけ大きくて胡散臭い街であれば、情報屋の一人や二人がいても不思議ではないが、彼らに支払える金はないし、そもそもそういう存在に接触できるかどうかも分からなかった。
「――ってことは、結局のところは、また虱潰しに聞いてみるしかないのかな」
「成果が上げられるかは、微妙なところです。
 特に、先ほどのように気に入らない発言をした相手に暴力を振るっては、成功率は相当低下すると考えられます」
「うっ……」
 クーロンはならず者が多い土地、レッドはあんなことが起こる前にくらべれば、多少の改善があるとは言え、やはり頭に血が上りやすい性質である。
 彼にしてはずいぶんと下手に出て、ブラッククロスの何かを知らないか、と必死の形相で聞き回っていたのだが、サボテン頭とかハリネズミなどと揶揄され、ケツの青い兄ちゃん、などといった暴言を吐かれては、勢いよく拳を振り上げても全く不思議ではない。
 かくして、往来での殴り合いとなり、その場は曲がりなりにも戦闘経験があるレッドが勝利したものの、仲間らしい破落戸ごろつきに囲まれて、逆に捨て台詞を吐きながら去ったのである。
「アルカイザーに変身できれば、あんな奴ら全部のしてやったのに」
「……そのような目的に使う力ではないと思われますが」
 一般的に、機械は人間や獣の感情の機微を理解できない、あるいはし難い、と言われている。妙なこだわりを持つものや、珍妙な思考回路を持つ機械メカもいるが、それらもあくまで疑似人格――生まれ育ちに依るものではなく、設計当時に与えられたものである。
 キグナスの医務室で、旅行客や従業員のケアをするために造られたこの機械メカは、ある程度は他人ひとおもんばかるように出来ているらしい。あるいは、これまで多数の人間の診療をしてきたからか、少なからず人を思いやる心などでもできたのかもしれない。――いつか、京で出会ったあの機械メカと同じように。
 またも正論を突かれたレッドは押し黙り、それから麺をすする。ラーメンの湯気はもう立っていないが、汁物のために温かく、対して肉まんはやや冷え始めていた。
 先に肉まんの残りを口の中に放り込み、もごもごと口の中の水分が失われたところを、塩辛いラーメンの汁で押し流す。すると、隣の医療メカが塩分過多などと喚いてアラームまで鳴らすが、レッドはうるさいと一喝してその頭に一発拳をお見舞いした(もちろん手加減はしている)。
「うるせえな、オレだってちゃんと分かってるんだよ」
「分かっているならば、そのような摂取方法は控えてください。
 塩分過多は高血圧のリスクを増大させ、将来的に動脈硬化や血管破裂などのリスクが高くなります」
「そっちじゃねえ!」
 正義の味方などという空想の存在に、憧れたことはそれほどなかった。
 元々、正義感が強い性格でもなく、望んでいたのは家族との平穏な日々。
 しかし、父、母、そして妹までも奪われて、自身の命までも喪われそうになった時に、奇跡的に授かった復讐正義のための力。
 正義復習以外に使ってしまえば、またも全てが失われてしまう――。
(オレは、間違えない。あんな小悪党にお披露目するほど軽いモンじゃない。
 この力はブラッククロスを倒すため、そのための力なんだ)
 正義か復讐か。その別は彼にとってほとんど意味のないことだ。
 家族を奪い、今もリージョン界にて暗躍するブラッククロスを壊滅に追い込むこと。それだけが、レッドの旅の意味なのだから。
「よっし、食った食った」
「……私も、先ほどのダメージの修理が完了しました」
「ずいぶん時間がかかるもんだな、もう動けるか」
「はい、戦闘に問題はありません」
 腹ごしらえと調整メンテナンスを終えたところで、一人と一台は動き出す。宛てはあるものの道標は見えない。ゆえに、この細々とした道が多く、人に充ち満ちて情報量もおよそ過分、見た目以上に大きなこの街を迷路のようにさまよう確信があった。
 それを一変させたのは、頬と鼓膜がよく覚えている怒号である。
 そして嵐のような雷のような騒ぎが右から左を駆け抜けて、その中心部にはまさに見知った人物の姿を認める。
「ヒューズのおっさん?!」
 身体が動く、無意識的に。両手、両足を動かせば自然と鼓動も早くなり、そしてその先に現状打破の予感を覚える。レッドより10は年上の男だが、レッドよりも早く手と足を出し、ついでに銃を取り出すこの切れ者ヒューズ、なんとIRPO公僕なのである。ブラッククロスの情報も持っているに違いない。
「おっさん! 何がなんだか知らねえが、オレも加勢するぜ!」
 かくしてヒューズを追いかけるレッド、そのレッドを追いかけるBJ&Kであるが、その視界の端っこに、ネオンの灯りではなく、もちろん陽光でもない、不思議な光がこぼれ落ちたことに、終ぞ気づかなかった。
 その光の中心部にいたのは、かつて非常時にキグナスに乗り合わせていて、そして素気無く、にべもなく協力を断られた、蒼い瞳の青年である。

◇◆◇

 ゲートを開閉する感覚には、ようやく慣れてきたところである。
 触媒を用いるために術力の消費はそれほどでもないが、緻密な制御を求められる。どこかの段階で何かを誤ってしまえば、混沌の中に放り出されてもおかしくない。王国キングダムにいた頃にこの術を使うための準備をしてはいたが、実践となると話は違う。
 それと同時に、この術の利便性に内心ほくそ笑んでいるところでもあった。
 独特の浮遊感から解放され、アスファルトを踏みしめる。
 以前も訪れたことのある薄汚くうるさい街であるが、つい先ほどまでいた場所よりは随分マシだと思い直し、ブルーは高く結い上げた頭髪や、それに纏い付けた髪飾りを整える。
 生々しく赤黒く、そして柔らかい臓物の上を歩き、ぐねりとうねる青や緑の血管を飛び越え、時にぬるりとした感触の弁膜に吸い込まれ、やっとの思いで『活力のルーン』を手にした。あの弁髪の男も心底鬱陶しくて、持っていた小石にルーンが刻まれ、ぼんやりとした淡い光が宿ったことを確認してから、すぐに扉を開く術式を唱えたのである。
 ここクーロンは、生臭くもなく鉄臭くもなく、道が蠢くこともない。それだけで安心感を得ることができた。
(……さすがに疲労が溜まっている。少し休むか)
 術の、殊に資質の取得に関わることでなければ、己のことを俯瞰できる程度の冷静さは持ち合わせている。
 あの場にて正しく無限に湧き出るスライムどもを一掃するために、かなりの術力を消費してしまった。加えて、柔らかで不安定な道を進むのは意外と体力を使うものだった。
 頼るような道連れはない。そもそもにして、術の資質を手に入れるために仲間など不要である。そういう考えから、誰も伴わずたった独りでここまで旅を続けてきたブルーである。道を阻む者たちも、生まれ持った魔力と磨き上げた術で消し飛ばしてきた。それができる実力が彼にはある。
 でも、それもいつまで続くか、という漠然とした不安が押しとどめられなくなっているのもまた、事実であった。
 髪を直し、重みのある首飾りは外して、包囲についた埃を払おうとして、そこにあの怪物の血が染み込んでいることに気づく。青い包囲に紅い染み。ただでさえ体調が優れないところに、思い切り不快なものを目にしてしまい、吐き気さえする。
 さっさと宿に行って、眠るのが得策だ。
 ブルーは宿へと足を向ける。この街の地図や構造は最初に来た時に全て覚えた。どこに何があるのかは既に把握している。薄いマットレスにないよりはマシ程度の布団があるだけの宿屋だが、身体を休めるという目的を果たすだけならそれだけでも十分だった。
 それほど小さくはない身体をよろけさせながら、頭に、全身に、血も酸素も足りていないことを感じながら、意志の力か、あるいは早く休みたいという欲望がブルーの身体を動かす。蒼い瞳はどこか虚ろで力はなく、明らかにふらめいているその様子に、道行く人々の何割かは振り返る。だが、彼の視界に入ることはない。
 それは、ブルーが疲れ切っているからではなく、そもそもにして全く興味がないためである。この街の構造は、彼が必要だと判断したから覚えただけに過ぎない。ここで生きる人たちがいつどうなろうと知ったことではない。使えると思えば利用する、価値がなければ捨ておく、それだけのことだ。
 しかし、そんな彼であっても、気がかりな点が一つある。
(…………このリージョンの、どこか、奥深く。
 何らかの……おそらく、術に関わる力があると、以前に来た時も感じたが。
 間違いない、これは……、ルーンの力だ)
 リージョン界の各地に散らばるルーンやアルカナの力は、その場その空間に多大なる影響を与えるものらしい。
 勝利のルーンがかつてのシュライクの王に力を与えていたように、活力のルーンがあの怪物タンザーに混沌にも呑まれず生き続けているように。この地のどこかにあるルーンが、クーロンというリージョンそのものに影響を与えていることは明白であった。
(つまり、この力の源を探れば、次のルーンを手に入れられる)
 しかし、それは途方もない作業のように思えた。
 この街の構造の必要な部分だけを頭に叩き込んだからこそ、分かる。
 蜘蛛の巣のように枝分かれした街、潜れば潜るほど道は増えて、正解がどれか分からなくなる。ぼんやりと、雲や霞のように薄く、この街の深部にあるルーンの力を感じるが、それを頼りにするだけではたどり着けないことも痛感していた。
(……この街のルーンまでは、道案内が要るな。
 …………この街の人間の大概は愚鈍だが、ルーンについて知る者もいるはずだ。そいつを探し出して……。
 でも、今は、身体を、身体を……)
 術の修練のために、資質の修得のために、次に成すべきことが脳内で次々と組み立てられる。直ちに、速やかに目的を達成するため、しかし、身体は休息を求めて叫んでいる。
(もどかしい、ルーンは、次の目標は、すぐそこにあるのに)
 思うように動かない我が身を呪わしく思うが、ある種で自業自得である。
 そのことには都合よく気づかないまま、今はくすんだ金髪を揺らし、濁った蒼い眼を擦る。一歩また一歩と進む都度、両足はじくじくと痛んで悲鳴を上げそうになった。そして、返り血を浴びて青と紅のまだらになった法衣を片方の手だけで握りしめ、下りの階段をのろのろと降りていく。
 こんな時でも人の減る気配のないこの往還が恨めしい。僅かに残った術力を掻き集めて、何もかも吹き飛ばしてやろうと一瞬だけ考えたが、ブルーは首を横に振る。面倒くさいことになりかねない。
 人また人の群れや波を越え、もうすぐ宿が視界に入る――。
 その矢先であった。
 疲労困憊の身体の、皮膚という皮膚が粟立つ。
 彼の中で淀んでいるように感じられた温い血が、一瞬にして沸いて全身を巡り、脳と身体の覚醒を促した。
 何よりも己の内にある魔力が、そして母親の胎内で、一つが二つに分かたれたという魂が、その存在を報せていた。
 今、己は何を見逃した? 疲労なんてものに気を取られている場合ではなかった。
 今、この道で、己と誰が行き交った? 問われるまでもない。
 月光のような銀髪はそのまま下ろされて、紅い法衣は翻り、紅玉ルビーのようなあの瞳は、確かに己自身を見ていた。
 受ける印象はかなり異なるが、そのままそっくり同じ造形の容貌、自らと同じく白い肌、背丈も指の長さまでも同じ。
 もしも見ている者がいれば、まるで鏡に映したかのように思っただろう光景。
 何よりも、この魔力。嫌になるくらいブルー自身と同じ質、同じ香り、全く異なる色合い。だからこそ、こんな間近になるまで気づかなかったのかもしれなかった。
 先ほどまでの疲れ切った所作からは一変、ブルーは勢いよく振り返り、そのまま階段を駆け上る。人、人、また人を掻き分けて、紅い魔力が残した跡を追う。自身の内に残る魔力を鎖の形に練り上げて、いつでも放てるように右腕にまとわせた。
「ルージュ!」
 見上げて、登って、たどり着いた先には、何もいなかった。
 ただ、紅い魔力の残滓があるだけ。
 呆然としながら、常人には見えない力の跡をなぞった。
 今の彼にとっては、よく見慣れた術式である。
「……ゲートを開いたか」
 どこへ飛んだかは、その痕跡まではさすがに消されていた。
 光で編まれた鎖が落ちて、音もなく消え去った。
 ブルーは耐えきれなくなって、汗や血、土やかびまで混じるコンクリートの地面へ膝をつく。
 周囲には、まだ紅い魔力の残り香が漂っていた。それが腹立たしいが、今の彼には何もできない。
 もしも今、憎い片割れと出会っていたのならば、自分はいったい、何をしていたのだろうか。
 殺し合う? それはあり得ない、まだ時は満ちていない。それは分かっている。
 何かを話す? それもない、片割れと話す言語があるとすれば、それは彼に浴びせる魔力の刃のみだ。
 いずれにしても、答えが出ることはないだろう。
 なぜならば、ここは、すれ違いの街なのだから。
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