酸っぱい林檎と百舌鳥の候

赤く熟れて、まん丸いリンゴを、軽く宙に放り投げては同じ手で受け止める。
 まるで物知らぬ子どものようである。少なくとも、すらりと手足が伸びていて、曲線で身体が描かれている女性にはあまり似つかわしくない所作だ。
 そんなところを見られては、彼女にとってのまさしく『目の上のたんこぶ』に何を言われるか分からないのだが、幸か不幸か、ここしばらく姿を見かけていない。
 市場で銅貨1枚と引き換えてきた甘いリンゴを、どこか座って落ち着ける場所で食べたい。
 それくらいの気持ちはアルドラにもあるので、まだお天道様が世を照らす昼間、人と人が行き交う広場を、ぐるりと首を回して見渡す。
 彼女の同じ考えの人間はいくらでもいるもので、休憩用としてまばらに置かれている椅子の全てに先客がいた。
 そんなことで気落ちするようならば、アルドラは今頃この世にはいない。
 すぐに椅子ではないけれど、座れそうで、かつ他の誰も思いつかなそうな場所を探す。
(……あの木の上なんか良さそうだな。日除けになるし)
 すい、と見上げた視線の向こうに、大きな木が見える。
 大の大人が数人集まっても叶わないような太い幹の樹木が、どっかりと根を下ろしている。
 人一人が登ったところで揺るぐこともないだろう。
 人間の手や腕に蝶々のひとつが止まっても、多少の煩わしさはあれど、大した問題にはならないように。
 早速登ってやろうと大股で歩を進め、それから下げた視線の先に『目の上のたんこぶ』が飛び込んできた。
 アルドラはぎょっとしてから立ち止まり、何かと口うるさいその男と、それからその隣にいる人の姿をよく見て、ぱちくりとまばたきを繰り返した。
 『目の上のたんこぶ』ことオイゲンも、アルドラの姿に気付いたようで、普段は細長い眼を多少は見開き、口を小さく開けて、少し呆けたような表情をしている。
 アルドラ自身も同じような顔をしているのだろうという想像はついた。
 いつも眉間に皺を寄せてアルドラを叱り飛ばす彼らしからぬ顔を見て、今度はこちらが笑い飛ばしてやりたい気持ちもあったが、その隣にいる人のことを認めてはできるはずもない。
 オイゲンの隣にいるのは、ミルザだ。
 塔士団からの依頼を受けて、遠くへの任務についていたと聞いていたが、どうやらオイゲンも同行していたらしい。
 妬心が蜂のように羽音を立てて飛び回って、ちくりと胸を刺すも、そんなことを気にして止まる想いでもない。
 任務を無事に終えたからか、ごく穏やかな表情を見せるミルザをいつまでも見ていたい。
 すぐにでも駆け寄って、いくらでも話をしたい。
 そういう衝動に駆られたが、アルドラの足は止まったままだった。
 ミルザとオイゲンとの話は、実務的な内容が多く、アルドラでは割り込めないし、むしろ邪魔になることが多い。
 マルディアスにいた頃からそうなのである。
 次の戦に勝つための戦略がどうとかという話が中心で、アルドラでは訳が分からない。
 ミルザと話がしたい、目を合わせて、笑っているところを見せてほしい。
 どうか、笑いかけてほしい。
 それは偽らざる本心である。
 しかし、彼の邪魔をしたくない、お荷物にはなりたくない、というのもまた本当のことだ。
 任務のあとのようだから、疲れも残っていることだろう。
(なんだか、ずいぶんと臆病になっちまったな)
 そう内心でだけ自嘲して、首をゆるく横に振ってから、アルドラは身体の向きごと視線を変えた。
 視界の端っこであからさまに表情を緩めたオイゲンが見えて、多少腹立たしく思ったが、ミルザがこのまま穏やかに時を過ごすことができるのならば、それでいい。
 さて、右手に持ったリンゴをまた宙に放っては受け止めて、それではどこでこの昼食代わりのリンゴを食べようかと、また広場全体へと視線を巡らせていると、後方から、それもそれなりには距離の離れているところから、それでもよく耳に馴染んでいて忘れようもない声が彼女の鼓膜を確かに震わせる。
「アルドラ」
 彼女の心臓を高鳴らせて、頬を赤く染め上げ、琥珀色の瞳が輝きを増す。
 聞こえてしまったならば、無視をしてしまうなんてできようもない。
 アルドラはぎこちない笑みをなんとか貼り付けて、振り返った。
 ミルザは柔らかな笑みで少しずつ近づいてくるアルドラを迎えた。
 オイゲンがその隣で、眉間に深く刻まれた皺に手の甲を当てて、細く長い息を吐いていた。

***

「遠慮することなんて、何もないのに」
 アルドラを右隣の席に座らせて、ミルザはカトラリーを器用に使い、テーブルの上の料理をたいらげていく。
 左隣にいるオイゲンと、大の男が二人もいるということもあるが、それなりに盛られていた皿から、みるみるうちに食物が消えていく様子は、見ているだけでも気持ちがいいもので、しかも二人とも育ちがいいためか、ナイフで肉を切るにしろ、それをフォークで口元まで持っていくにしろ、所作のひとつひとつが流麗でとても上品である。
 カトラリーの有用性というものは、アルドラも最近ようやく知ったところである。手掴みで豪快に食べるのはやめて、なるべくナイフとフォークを使っての食事を心がけていたのだが、生まれ育ちと磨かれた技術には叶いっこないと改めて思い知らされる。
 別に、誰かと張り合うつもりはない。
 だけど、もしもその人の隣にいることが許されるならば、それに見合うようにはなりたいと思う。
 ……それが、あまりにも過ぎた願いだとは分かってはいるけれど。
 思わず出そうになったため息を噛み殺して、アルドラは両手で持ったリンゴに口付けた。
 そのまま齧ろうと小さく口を開けたところで、ミルザと、それからオイゲンまでもアルドラの方を見ていることに気づいた。
 一挙手一投足までを見られている気がして、さすがにあまりいい気分ではない。
「なんだよ、オレの金で買ったんだ。やらねえぞ」
 二人とも、わざわざ他人のものを欲しがるほど賤しい生まれではないことは分かりきっている。
 外でリンゴを食べることがそんなにも奇異に映るものなのか、アルドラには判然としなくて、まるで見当違いだと分かっていても、こういう問いかけしてみるしかなかった。
「アルドラ、昼食はもう済んだのか」
「……これが昼メシ。外に出たりとかしなかったし、今日は暇だったから、そんなに食べなくても大丈夫」
 これはあまり良くない流れだと、若干の警戒心を滲ませつつ、アルドラはリンゴを一口齧ってしまおうと赤く瑞々しい肌に前歯を立てる。
 飛沫とともに甘い果汁の一筋が流れる前に、ミルザが片手でリンゴを取り上げてしまう。
「あっ」
 てめぇ! と短く叫んでしまっても良かったのかもしれない。
 そうしなかったのは、やはり乙女心の成せる業で、こんなにも自身のあり方が変わってしまったことを、己自身のこととは分かってはいるものの、アルドラは未だに信じられないでいる。
「果物だけでは足りないだろう。食べかけで申し訳ないが、まだ肉も魚も残っている」
「い、いや、いいって……。最近、食べ過ぎているんだ。元々そんなに食べる方じゃない」
「それは、冗談か? まだ肉付きが足りないように見えるが」
「あ、あのなあ……っ!」
 アルドラからすれば惚れた身の上なので、こういうやりとりにすら一片の幸福を感じるものなのだが、しかし。
 この男は時折、世にいうデリカシーというものが全く足りていない発言をする。
 ミルザ、アルドラが相手とはいえ、それはいかがなものか、などとオイゲンが思ったかどうかは果たして、定かではない。
 さすがに怒りも覚えたのか、勢いよく立ち上がろうとしたアルドラの目の前に、銀に閃くものがひとつ横切る。
 正確には、銀のフォークが突き刺された、ソース滴る肉の一枚が差し出されている。
 差し出す方のミルザは、彼にしては珍しく、いたずらっぽい笑顔を浮かべていて、それがあまり見ることのない表情であるものだから、傍目から見れば情けなく映るような場面でも、ときめきを禁じ得ない。
 なので、ほとんど迷うことなく、突き匙の肉にぱくりと食いつく。
 異国の調味がなされ、肉汁が多分に含まれた柔らかな身を奥歯で存分に噛み締める。
「………………うまい」
 ゆっくり咀嚼して、飲み込んで、正直な感想をこぼしたところで、次の匙が差し出される。
 白身の魚はクリームで煮込まれていて、品の良い後味が口内に広がった。
 うっすらと味付けされた葉野菜は、ぱりぱりとした食感が心地よかった。
 ミルザが手ずから一口分にちぎったパンは柔らかく、たっぷりと塗りたくられたバターとともに口の中で溶けていった。
 どれもこれも美味なので、アルドラには文句の付けようがなかった。
「こうやって、あんたが色んなものを食べさせるから、太るんじゃないか……」
 最近のアルドラの肉付きが良くなってきたのは事実である。
 主に二の腕のあたりとか、太ももの方とか、あるいは胸の膨らみだとか。
 そういうところについてきた肉が、最近のアルドラを悩ませているのだった。
 気にすることなど、何ひとつないのに、と彼が思ったかどうかは定かではない。

***
  
 仲睦まじい男女が、食事を食べさせ合う。世の中によくある、馬鹿げた話である。
 多少はそういう空気があるような気がしなくもない。彼としては、全く認めたくないことではあるが。
 しかし、それ以上に。
(親鳥が雛に餌付けをしているようだ……)
 かくもバンガードも戦乱に巻き込まれている最中、しかしまだ平和な光景が残る昼下がり。
 何にも代え難い盟友と、どうしたっていけ好かない女が物凄く奇妙なやりとりをしているのを見て、遠征後の疲れもあってか、オイゲンの身体からは力が抜けていく。ゆるゆると背もたれに身を預けていると、その様を見ていたミルザがからりと笑った。
「オイゲン、お前のそういうところは、なかなか見ないな」
 一体誰のせいだ、という言葉を発する気力もなぜか湧かず、代わりに盟友ではなく、女の方を見てみる。
 いかにも複雑そうに、だけど、とても嬉しそうに微笑む女を見て、こんな日があってもいいか、と天を見上げた。     
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