乙女追想劇

 よく磨かれた鏡の中で、まだ若い女が、しきりに瞬きを繰り返していた。
 成人したか、そうではないかという歳の頃合いの娘。
 野で生き、腐肉をみ、泥までも啜る獣によく似た、鋭い目つきで、己と全く同じ姿をした女を見つめていた。
 手足は棒切れのごとき細さで、ともすれば少年のようにも見える体躯である。しかし、柔らかな曲線で描かれる身体、特にしなやかな腰つきは間違いなく女性のもの。
 何よりも他人ひとの目を惹くのは、長く伸びた朱色の髪だ。
 陽に照らされれば一層、人間ひとの目には鮮やかに映るその髪の色を、アルドラ自身が気に入るようになったのは、わりかし最近のことである。
『君の髪の色は、君が作り出す炎のようだ』
 かつての人がくれた言葉こそ、アルドラの胸の奥に火を灯す。
 赤毛の、それも毛並みの悪い犬。
 いや、ただ吠えるだけで害はなく、それどころか訓練すれば忠犬として番を果たすから犬の方がまだましだ。
 いつまで経っても口汚い言葉ばかり吐き、魔力の制御さえままならず、いつもすすまみれたアルドラは犬畜生よりも役立たず。
 全く、どこがミルザの目に止まったのか分からない。
 赤毛に煤をまだらに散らした、技量も器量も足りない狂犬アルドラ
 ミルザの周りを囲っていた、そして最後にはミルザに選ばれた、高貴な血筋とやらを持つ仲間たちから口々に罵られても、アルドラは朱く長い髪を誇らしく思う。
 アルドラがミルザのためにできることは、生み出した炎を繰って、立ち塞がる敵を蹴散らす、ただそれだけだ。
 たったひとつ、焦がれた人のためにできることと、己の髪の色を重ねられて、意図せず頬も同じ色に染まったその時のこと、その想いを、アルドラは今でも変わらずに抱いている。
 だから、髪の手入れにも彼女なりには気を遣っているつもりなのだが。
(――――高く、売れそう……、だな)
 鏡の中のアルドラは、柘植の櫛を手にしていた。
 異国の花がいくつも描かれた、女性らしい趣向おもむきの梳き櫛である。
 鏡の外の自分アルドラは、それを怪訝な目つきで眺めていた。
 売り払うつもりは毛頭ない。
 なぜならば、これはミルザがアルドラに贈ってくれたものだから、である。
 ◇
 目覚めたとき、自分でも彼の人でもない人間の声を聞いた。
 それまで、己がどこで、何をしていたのか、アルドラはよく思い出せなかった。
 ただ、彼の人のことだけがアルドラの心にはしっかりと刻み込まれていた。
 それだけは、何一つ変わることはない。
 しかし、他のことは引く波にさらわれる貝のように呆気なく忘却と混沌の海に呑まれて、あるいはアルドラ自身のことさえ手放してしまったという有様であった。
 助けてあげて……、という知らない誰かの懇願する声が、アルドラを無色の海の底から引き上げていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 そして、次に瞼を開いたとき、琥珀アンバーの瞳に映ったものは、何よりも眩い銀の色。
 細かい傷跡がいくつも残る大きな手が、節々は丸く皮は厚い武人の手が、上方からそっと差し伸べられる。
 アルドラは、無骨に見えて、実際厳しい面が目立つけれど、誰よりも優しいのだと分かっているその手をじっと見て、まじまじと見つめて、そうしてからおずおずと自らの右手を差し出した。
 二つが重なるよりも前に、上の手が下方にある娘の手を、手首ごとつかんで引き寄せていった。
 ◇
 手の中にある櫛は、その直後に受け取ったものである。
 見慣れぬ意匠デザインだが、それもそのはず、『この世界』のとある地方でよく作られているものなのだという。
『君の髪の性質に合うかどうかが不安だったが、杞憂だったようだ』
 アルドラの髪に柘植の櫛を通し、実際の感触を確かめてから、手渡したのだ。
 だから、アルドラが櫛の使い方が分からないということはない。似たものは元の世界マルディアスにも勿論あったし、形状を見てみれば、教わらずとも十分察することができる。だが、アルドラはこの梳き櫛をまだ実際に使ったことがなかった。
 布につつんで、何重にもくるんで、与えられた部屋の引き出しにしまっておいている。
 ほんの時折、たとえば現在いまのように、引き出しから出して存在を確かめる、それだけだ。
(だって、すごく、すごく……、もったいないじゃないか)
 木製の小物は、丹念に研磨して、仮漆ニスを濡れば柔らかな光沢を宿すこともあるが、星のようなきらめきを持つことはない。
 けれど、アルドラの目には、どんなに貴重な宝石よりも輝いて見えたのだ。

 自分が美しいのか、そうではないのか。
 己の価値は今も昔もそこにはないと、アルドラはそう自認していた。
 濁水を被り、誰のものかも分からぬ血で衣類とも言えぬ布切れを汚し、土埃を吸っては黒い唾を吐き出して、何とか生き延びる。
 そういう生き方をしていた頃は、己の美醜など気に留めたことはなかったのだ。
 彼の人に出会ってから、アルドラを囲む世界の色彩は塗り替えられた。
 空の青さに憧憬を抱き、移ろう季節の風に揺れて木の葉が千にも万にも色づいていくことに気づいた。
 路傍の石には哀れみを、一輪の花には慈しみを、人の笑顔には微笑みを返し。
 そして、彼の人には、恋をした。
 それは、アルドラにとって、初めての恋だった。
 過ごす日々の重なりとともに、募っては積もり続ける想い。
 それを、言葉の形にしてはいけない恋でもあった。
 だから、今でも己の見てくれなど、どうでもいいことなのだ。
 ミルザがアルドラに見出した術法の才能。
 まさし周りの人間も認めている。
 そして、アルドラがミルザのために差し出せるものは、この術法の力以外にはない。少なくとも、アルドラ自身はそう考えている。
 魔道士としてならば、銀の戦士と人々に讃えられる彼の隣に立つことができる。
 生まれつきの赤毛をみっともないと眉をひそめられても、育ちの悪い餓鬼と罵られても、魔道士として才を示せば、ミルザの傍らで戦い続けることができる。
(……)
 もしも、もしもミルザの隣に立つことがあったとして、彼の輝きを汚すことにはならないだろうか。
 しろがねを、血と煤とが混じるくすんだ朱で錆びつかせてしまうことにならないだろうか。
「オレらしく、ねえな……」
 鏡の中の少女と、鏡に向き合う彼女の呟きごとが重なった。
 手の中の梳き櫛を握りしめて、アルドラは鏡から目を背けた。
 カーテンの隙間から差し込まれた陽光を反射して、よくよく磨かれた鏡が、きらりと閃いてから、彼女の横顔を優しく照らした。
◇◆◇

 バンガードと呼ばれているこの街では、『塔』から喚び出された者たちにも自由な振る舞いを認め、更に衣食住の保証もしている。
 異界の戦士と呼ばれる彼らは、まさしく文字通り『この世界』ではないどこかから来ており、更におおよそは魔獣と対峙しても簡単に捌けるくらいには戦いに長けていた。
 彼らには全く非はないが、さりとて、『この世界』の『この時代』に生きる人々にも『塔』の仕組みは分かっていないのだ。強いて言えば、泥の国にて研究されている星読みの技術と関連性があるかもしれない、ということだけ。
 異界の戦士を拘束するすべはない。おおよその場合、『この世界』で他に行く宛もない彼らを保護し、統括している世話を焼いてるのが、今代のロアーヌ侯ゼノン・アウスバッハが擁する塔士団に所属することになる。
 塔士団は、時空の置き去りにされた戦士たちに、『この世界』のために剣を取ってくれないか、と要請をすることが多々ある。
 正義感の強い彼らである、もしくは他の目的力自慢とか悪巧みとかを持っていることも決して少なくはないが、大体の者は了承するのだ。せめてもの報酬として、幾分かの金子を渡している。
 働かざるもの食うべからず、とは東方に伝わることわざであったか。
 無論、理不尽そのものに連れてこられた戦士たちに適用されないが、少しだけでも自由に使える金銭があれば、楽しみは確実に増える。
 それは、何時何処いつどこの世にも共通して言えることなのであった。

 さて、前の晩遅くに氷湖への遠征から帰ってきたアルドラは、報酬の金貨オーラムをしっかり受け取ってから、自室まで道のりをのたのたとよろめき歩き、着いた途端に布団の海原にその身を沈めて眠りこけ、そのまま日が高くなるまで眠りに眠って、それからようやく目覚めた。
 ――くぅ、と切なく鳴く空腹の虫の鳴き声が聞こえて。
(腹が減るって、ひもじいんだよな、本当に……)
 アルドラは貧しい育ちだ。
 過ぎた空腹で腹が潰れ、命を失った者を見送ったこともある。
 食べるものに困らないところにいるのは幸運であると、よく知っていた。
 それ故か、少しでも空腹を感じると、何かつまんでしまいたくなる。
 皿に盛られた肉ならば、髄と漿まで食べ尽くす。
 そういうところが卑しい野良犬のようだと、かつての仲間に蔑まれたことがあったが、は違う。
(これ以上肉が付くと、動きが鈍くなりそうだ……。
 毎回腹が膨れるまで食べなくてもいいって、分かってるけど)
 肉を食べれば肉がつく。食べるほど増える。当然の帰結である。
 それくらいは、アルドラも理解している。
 ならば、余計に食べなければいい。
 誰も分かり切っている道理である。
 しかし。
『アルドラは、まだ細いな。ちゃんと食べているのか?』
 ともに食事をするたびに、そうやってアルドラを甘やかし、もっと食べろと肉やら魚やら果実やらを勧めてくる人間がいるのが、大変良くなかった。
 勧められるがままに、ぱくぱくと食いつくアルドラもまた良くなかった。
 ほとんど骨と皮だけの、まるで厳冬の孤木のように乾いた身体が、形を変えていく。
 年頃の乙女らしい瑞々しさを湛えたその姿に、驚く者も少なくなかったのだ。
 己の外見みてくれに大した執着を抱いてはいないアルドラも、自身の変化に思わず目を丸くした。
 ……そこまでで良かった。
 これ以上食べたら余計だから、もう入らないからと訴えると、そうか、と引き下がってはくれるのだが、その表情がひどく寂しげなのだ。仕方ないから一口だけ、とスプーンに盛られた馳走を頬張ってしまう。
 そういうやりとりは元の世界マルディアスにいた頃から、奇妙な縁でこの街バンガードに来た今でも続いている。
 ミルザは、英雄だ。故に、常に誰かから必要とされ、当然のように応えてみせる。
 それは彼方の地マルディアスでも此方の地バンガードでも変わることなく、新たな塔の攻略のために出撃したり、や軍議の場などに招聘されることも多い。
 それでも、元の世界マルディアスにいた頃より余裕があるらしい。
 何せ、此方の地に集う英雄は一人じゃない。
 かつてこの世界そのものを救った事実・・がある八人の英雄を筆頭として、生涯を掛けて仇敵と追い続けた術士と因縁を終わらせたその孫娘、数百年に渡る歴史と人々の想いを一身に受け継いだ皇帝、謎に包まれてはいる(ことになっている)が正義の心燃えたぎる覆面のヒーローたち、はたまた、優れた才を持つが故に、課せられた宿命に身を投じる双子の魔術師。
 ことわりすら凌駕する力を秘めた氷炎の少女。
 そして、これから英雄になるべし険しい道を歩んでいる塔士の青年。
 生まれた地が異なり、勿論背負うものも異なる、しかし、不思議と人々を惹きつける魅力を備えていて、更にはいずれも背中を任せてもいいと思えるほどの技量の持ち主。
 今の塔士団とは、性格や性質たちを違えど、そのような人物たちが多く集う場所組織なのである。
 ……そういう訳で、破壊神との決戦に向けて、立ち止まって空を仰ぐことも、憂鬱にため息をつくことすらも許されぬ状況下であったあの時のマルディアスとは状況がかなり違う。
 苦境に立たされても、肩を並べてともに立ち向かい、頼ることができる仲間がいる。
 時間的な、そして何より精神的な余裕は、マルディアスにいた頃とはまた別なミルザの表情をアルドラに見せた。
 それは、ここに来て良かったと彼女が思う理由の一つとなった。

 さて、過去を回顧しても、腹の足しにはならない。
 そのこともアルドラは当然分かっているので、手持ちの銀貨を数枚取り出してから街へと繰り出した。
 宿場から一歩外へ踏み出すと、遙か上天の真ん中におわす太陽の柔らかな光が、下土かどの海、街、道、人に獣、遍き全てを照らしている。陽光は、萌木のようなアルドラの姿も、人の目を惹く朱色の長い髪も鮮烈に映し出していた。
 しかし、真昼の時分で、傍目に見るには明々あかあかとしている風景も、その中に入れば思っていたものとは少々勝手が違うことに気づく。
 身を震わせるほどではないのだが、そよぐ風が肌の上を滑るとあわの道筋ができる、その程度には冷え込んでいた。
 麦秋を過ぎて久しく灯火の候。
 朝晩に冷えて風邪でも引いたら大変だからと、毛布を一枚余計に受け取ったことをアルドラは思い出す。
 全く、この街の人々はお人好しが過ぎる。
 育ちが悪いために、あるいは女であるがために、誰からも嘲笑されていたアルドラにも気遣ってくれる。
 火蜥蜴と呼ばれていた頃の自分であればどうしてやっただろうかと考えてみたが、アルドラは己のその思考を途中で打ち切った。詮無きことだからだ。
(そんなことより、スープでも飲みたいな……)
 街中の噴水が凍り付くほどではないにしろ、吸った空気の温度に驚くほど、冷え冷えとしている。
 そういう時候の中で、よりにもよって氷湖になどに赴いたのだ。その地にある鉱物がどうしても必要とのことで、主に火の術法を得意とする面々と共に向かったのだった。そのおかげで、凍え死ぬなんて事態ことにはならなかったが、白目を剥くほど寒かったのは事実である。
 アルドラの記憶が確かならば、吹雪の中で眠りかけて、起こされたような覚えがある……。
 それほど過酷な状況下にあったのだ、あらゆる素材が溶けだして滋味深いスープを飲みたくなるのは、人間(ひと)としてごく自然な心の動きだ。
 衣類で覆われていない手の甲やら二の腕やらをさすりながら、アルドラはようやくたどり着いた店の看板を目にして、ほっとひとつ息を吐くのだった。

 店はいつでも、盛況であった。
 それは昼時を少し過ぎた程度でも変わらず、ごった返すというほどではなかったが、複数人で来ていたのであれば少しばかり待たなければならなかったかもしれない、という程度である。幸いにして、アルドラは独りでこの店に来ていたので、すぐに席まで通された。
 海に近いこの街では、少々の野菜と魚介を殻ごと鍋に放り込み、長時間煮込んでから塩胡椒などで味を調えたスープがよく作られている。匂いに多少のクセがあり、また一部の種族からは「残虐極まりない」とか言われているが、およその人間からの好評を得ている名物料理だ。
 舌先が火傷しそうなほどに熱せられたそれを一口啜り、魚介独特の臭みが鼻腔を通り抜けた後、広がる複雑な旨味の波に乗るように、一度だけ頷く。
 それから弾ける海老の身を前歯でかじり、同時に店の中でざわめき重なる声に、アルドラは何となしに耳を傾けた。
 男が己が武勇を誰に聞かれずとも語って誇り、女は誰と誰がどうにかなったという噂話を囁いては微笑む。獣は大概肉やら肉でないものやらにかじり付いていて、機械メカなどと呼ばれる鉄の塊は何をしているのかよく分からないが、とにかく何らかの音を発している。それらが一体となってうねり、大衆食堂ならではの混沌とした熱気となっている。
 その中に、歌声が混じっていた。
 男の歌声だ。
 数多の戦士と同じく、『塔』から解放されたという吟遊詩人である。彼も元の世界マルディアスからやってきたとのことであるが、アルドラが生きた時よりも、かなり後の時代から来たらしい。アルドラとは面識のない彼らからは「あなたもここにやってきたのですね」という異口同音の言葉を掛けられていた。
 ただ、アルドラと同じ時代ところから来たはずのミルザが、この詩人と何度か話しているところをアルドラは見ていて、そのことは気になっていた。
 吟遊詩人は、謳う。
 何の変哲もない食堂の片隅で、アルドラには見慣れぬ楽器のいとを爪弾き、朗々としていて、このざわめきの中でも殊更に伸びる声で、とある歌を唄っていた。
 それは、恋の歌である。
 珍しい、とアルドラは思った。
 彼は異界の戦士たちの旅についてきては、その地で遭遇した敵といかに勇敢に戦ったか、あるいはその地で起きた奇異な変事をひとつの物語に仕上げて、街の皆に聴かせる。アルドラも何度か聴いたことがあり、教養というものからはおよそ離れた位置にいる彼女にも響くものがあった。
 吟遊詩人は、唄う。
 それは、『この世界』では昔からよく知られて、ありふれていて、だからこそ長く謡い継がれてきた、当たり前の、相聞歌ラブソング……。
(……オレには、合わないな)
 歌と、自分と、想い人。
 これを重ねるというものは流行るものだ。
 しかし、今、詩人が唄う歌とアルドラとでは、状況が全く異なる。
 何せ、恋人と想いが通じ合った時、初めて触れあえた時の喜びを歌い上げたものなのだ。
 そのことをあなたは覚えていますか、と今は遠いその人に問いかけている。
(そもそも、触れるどころか、目を合わせて話すことだって……難しいのに)
 スープを啜り、具を口一杯に入れて咀嚼しながらも、女性にしては珍しく切れ長の目を伏せて、少しばかり頬を染めて、ここにいることを忘れたような様子で、物思いに耽る少女の姿は何ともしおらしく、訳を知らぬ他者が見れば喉を鳴らしてしまうような色気すら纏っていた。
 ……そうなる前に、既知の者が話しかけたことは、幸甚なことであった。
「あら? アルドラさんではありませんか」
 金の鈴が転がるような声に、聞き覚えがある。
 アルドラはおもむろに顔を上げた。
 およそこの場に似つかわしくない人間だ。
 まっすぐに伸びた金糸雀カナリア色の髪は長く、腰まで届いている。
 華奢な体つきに、小さな顔。春の空をそのまま映したような水色の瞳に吸い込まれそうになる。
 庇護欲をかき立てられそうな外見見た目とは裏腹に、芯は強く、いざとなれば自ら馬を駆って戦地へ赴くほど勇ましさも持ち合わせる。
 かつて『この世界』を救った英雄、八星。
 その耀きが一つ、ロアーヌ侯の血を引く由緒正しき姫君、モニカ・アウスバッハが、いつの間にかアルドラの隣にいた。
「も、モニカ……さま」
「そんなにかしこまらないでください。私もあなたと、そう立場は変わらないのですから」
 いや、変わるだろう、という一言は臼歯ですり潰した魚介の身とともに喉の奥へと呑み込んだ。
「どうして、モニカ様がこんなところに?」
「私だって、あらゆる地を旅して回っている身です。ロアーヌ候の妹だからとて、どこでも厚遇していただけるとは限らないし、生まれに甘えていてはなりません。
 ……今は、とある方と、待ち合わせをしているところなのです」
 その方が、堅苦しい場所がいい、とおっしゃったのですわ。
 そう付け加えて、モニカは注文していたらしい林檎の甘露煮コンポートをフォークで突き刺し、口に運ぶ。
 優雅な所作は高貴なる姫君そのものだが、甘味に頬をほころばせるその表情は年頃の娘といった方が相応しく、アルドラにも親近感というものが湧く――ほんの、少しだけだけど。
 さて、柔くどこまでも甘い林檎の実を味わいつつ、モニカは真横の席でまだ少しぼんやりとした表情を見せるアルドラについて思い返していた。
 年齢はモニカ自身とそこまで変わらないか、少し上なのだろう。少女と女性の狭間にいるような体躯だが、内面はいじらしい乙女そのものである。
 彼女はマルディアスと呼ばれる異界から来た魔道士だ。しかし、モニカがよく知っているアルベルトやアイシャといった者たちとは違い、実に千年も前の時代にて邪神との戦いに身を投じていたらしい。その意味では、モニカたちにとっての祖先であるフェルディナンドや聖王に近い存在ではある。
 あるいは、この時代の人々にとってのモニカ自身や兄のミカエル、その妻となったカタリナやユリアンを初めとした仲間たちのような。
(そう言われたところで、実感なんて、未だに湧かない……)
 実感の有無はともかくとして、大好きな人たちが生きてきた街、国、そして世界に危機が迫り来るのであれば、成すべきことはただ一つ。
 ふっ、とモニカはひとつ息を吐いた。
 そのまま、また、物思いに耽る。
 彼女は――アルドラは、それはそれは才に秀でた朱鳥術士らしい(厳密には朱鳥術市とは言わないようだが)。あの・・ボルカノが目を見張り、ジョセフィンの二色の瞳もぱちくりと瞬き、大変仲が悪いと評判の双子の兄弟でさえもそれぞれ一目置くほどの才華の持ち主だ。
 しかし、使いこなせなければ宝の持ち腐れ。
 そして、彼女は己の才能に気づくのが遅かったらしい。
 彼女アルドラがミルザというマルディアスの英雄を慕っているのは、彼女の才能を見出したのが彼だから、ということもあるのだろう。彼の力になりたいと、術の研鑽に励む彼女の姿が、昨今、このバンガードでよく見かけられるようになった。
 塔士団で朱鳥術の大家と言えばボルカノである。かの術の理路整然とした体系を作り上げ、近代における朱鳥術の祖として敬う者は多い。また、意外に面倒見もよく、じゃじゃ馬ジョセフィンに懐かれているだけはある。彼の方は彼の方で、異界の朱鳥術らしき何かに興味を示しているようだ。
 また、現代に生きる朱鳥術士のポルカとも一緒に訓練をしているようだ。彼はアルドラを『塔』より解放した塔士本人でもある。そのためか、あるいは互いの性格からか、話がしやすいらしい。更には、剣をその手に取りながら術も唱え、閃く刃に炎を纏わせて斬りつけていく姿勢スタイルが似通っている。加えて、彼も成長してから朱鳥術の才を得て、十余年の歳月を経て熟練させていったのだという。その事実ことは、アルドラをかなり勇気付けたようで、何かしらで行き止まった際にはまずポルカを頼るようになっている。
 その光景を、も見ているはずなのだが。
 が何を思っているのか、さしものモニカ姫と言えど、推し量ることはできない。
 それはさておき。
 モニカが林檎ひと切れ分の潜心から、人の声折り重なる大衆食堂(現実)へと戻ってくると、渦中のひと、アルドラがやや遠慮がちにではあるが、モニカの方を見やっていた。
 彼女の方はスープを食べ終えたようだった。口のに少し滓がついている。モニカがそっとナプキンを差し出すと、恥ずかしそうに頬を赤らめながら受け取り、膨れた唇とその周りを拭う。
「すまない。こういうの、慣れてきたつもりなんだけど」
「いいえ、お気になさらず。
 それよりも、どうか……、なさいましたか?」
「あ……、い、いや、さ……。
 あんたの髪が、綺麗だと思って、見ていたんだ。
 えらいつやつや・・・・していてさ、オレの髪とは、大分違うから」
 高く結われたアルドラの髪。灯りの少ない屋内でもよく目立つ、実に鮮烈な色合いをしている。そう、まるで、夜闇に揺らめく炎のような。
 所々脱色ブリーチした髪の房を編み込んで結い上げているところに洒落っ気があって、よく似合っているようにモニカには見えた。
 モニカの金糸雀色の頭髪と明らかに違うところがあるとすれば、彼女の言うままのことなのだろう。
 そして、それは難なく解決できる問題である。
「アルドラさん、少しお時間はありませんか?
 ちょうど、道具の持ち合わせがありますから」
 肩に掛けた小物入れポシェットに手を掛けて、モニカは頬笑んだ。
 美姫と名高いその人の微笑は、春に咲く花のような暖かさに満ちていて、これから起こることも善意そのものなのだとアルドラにも分かっていたけれど、どうしてか、一抹の不安を覚えたのだった。

 背後に他人の気配があると、むずむずといたたまれない気分になる。
 否、こういったことをされるのは、何となく気恥ずかしい。
 すぐにでもここから逃げ出したい、と叫び暴れそうな己をどうにか抑えて、アルドラはハイチェアに背中を預け、なされるがままにされていた。
 そんなアルドラとは対照的に、鼻歌でも唄いそうな上機嫌で、モニカは朱色の髪に指を通していた。
「アルドラさんの髪は、量が多くていいですね」
「そ、そうかな……」
 モニカはぱちくりと目を瞬かせた。
「色々な髪型が楽しめるもの、うらやましいわ。
 ――私の髪は、少し痛みやすいんです。
 だから、こういうものをつけているんですけれど」
 くくる紐を解いてしまえば、彼女の案外小さな背中をすっかりと覆ってしまって、夕日が染める空のようである。その髪の多さと、しっかりと芯のある髪質を手触りから感じ取りながら、モニカは透かし彫りの施された櫛と硝子ガラスの小瓶を取り出す。
 半透明の小瓶には、とろりとした粘度のある液体が収められていた。透き通る青の中でゆらゆら、ゆっくりと揺らめいて、蠱惑的ですらある。
 コルクの栓を抜いて、中の液体を三、四滴くらい手のひらに落とす。それを両手でよく伸ばしてから、モニカはまたアルドラの髪を手櫛でいていく。
 アルドラは未だどぎまぎとした心持ちでいるのに、相対して楽しげなモニカの様相に当惑しきっていたが、悲しいかな、なされるがままにするという処世術を覚えてしまっているので、動かないし動けない。
 長い髪の上から下までを、なめらかで細長い指が通る。それから軽い金属でできた櫛が指が進んだ道筋をなぞるようにくしけずられていく。
 日々それなりの手入れはしているのだろう、著しく痛んでいるということはないが、櫛の細い歯に時折、荒れた朱の糸が絡んで引っかかる。その度に頭皮につつかれたような痛みが走り、アルドラの眉も陸の魚のようにひょこひょこ跳ねる。だけど、その頻度は時を経ることに低くなっていく。
「どうぞ、お持ちになって」
 頭の天辺から下の先端まで、櫛が止まることなく通せるようになった頃、モニカは手鏡を差し出す。
 金色のフレームに精緻な彫刻レリーフのなされた鏡の意外な重さに驚きながら受け取り、覗きこんだ鏡面の中にいる自分自身にもアルドラは少し驚いて目を見開く。――正確には、モニカ姫の手が入れられた己の朱い髪に、である。
 結い紐を解いて下ろされた髪は、確かな色艶を持っていた。屋内で光源が限られたこの場所でも、緋の色に、あるいは杏色あんずいろに変じて、艶めいている。
 アルドラの人差し指と親指が、顔の輪郭を隠すように垂れ下がる一房へと伸びていく。つまんだ指の腹には、まず水に濡れているような感触が伝わる。平時いつもであれば、触ってみても何となくぱらぱらとしていて、悪いときには妙な癖がついてあらぬ方向へとうねっていたものが、しっとりとした潤いを得て、すんなりとまとまっていた。ふと、花のように甘く清々しい香りが漂っていることに気づく。香水ほどくどくはないそれも、あの青い小瓶に入った液体によるもので、さすれば正体を知りたくなるのが人間ひとというもの。
 アルドラが上半身だけで振り返ると、モニカはいたずらっぽい笑顔で無言の問いに答えた。 
「とある植物の種子から作られた香油ですわ。
 東方で作られているもので、向こうの女性はこれで毎日髪の手入れをしているのだそうです。最近、こちらでも手に入るようになったそうですよ」
 東の大地にある国とバンガードとでは、距離の隔たりがある。モニカが本来生きた時代ではそうそう目にすることもなかったものだが、現在では交易のための経路がある程度できたようだ。そのため、遙か彼方の異国の品々も容易に……とはなかなかいかないが、金銭と時間を惜しまなければ手にすることができるようになった。
 青い小瓶の中、微睡みのように揺らめく香油に、異国の建物が浮かんでいるような気がする。
「ありがとう……ございます」
「いいえ、私の方もこういう機会はあまりなくて、とても楽しかったです。
 ただ……」
「ただ?」
「毛先が結構痛んでいるようです、切り揃えた方がよろしいかと。
 私ははさみの扱いに慣れていなくて。
 ――アルドラさんご自身でなさるにしても、後ろの方は難しいでしょうから、そこはどなたかにお願いするのがいいと思います」
「それ、私がやってみたいんですけど、いいですか?」
 溌剌とした女性の声が、アルドラよりもモニカよりも後ろの方から飛び込んできた。
 彼女もまた、『塔』から解放された異界の戦士である。

 コーデリア・エメリーは、で作られたツールを左手に持ち、右手ではアルドラの髪の具合を確かめていた。
 その前方、少し離れたところでは、モニカが先ほどと同じく微笑を湛えて、またその後方には、ウィリアム・ナイツが困ったように笑って、いかにも楽しげに鋏を振るうコーデリアと、相も変わらずなされるがままのアルドラを見守っている。
「コーデリア、一応だけど、気をつけて」
「大丈夫よ、ウィル。いつも通りにやれば大丈夫なんだから」
 コーデリアはウィリアムのことをウィルと呼び、ウィリアムはコーデリアのことをコーディと呼ぶ。
 ウィリアムの場合、親しい者の誰からも愛称のウィルと呼ばれているが、コーデリアをコーディと呼んでいるのはウィリアムだけ。
 互いに愛称で呼び合う二人は恋人同士である。
 そのことは、塔士団ではもはや今更な周知の事実だし、実際、この二人はよく行動をともにしていた。
 少し、ほんの少しだけ、うらやましいと思い、アルドラはそっと息を吐いた。細く、長く、誰にも気づかれぬように。
 はっきりと言葉の形にすることすら、躊躇われる恋をしている。
 元より、叶うはずはないし、高望みなどはしない。
 それでも、もしもそれ・・が許される機会があって、伝えることだけでもできるならば、それだけで報われるような気がしている。
 つんと痛み、ひりりと疼く胸の奥の痛みに気づかなかったふりをして、アルドラは右方を見やる。
 コーデリアがアルドラの髪を手に取り、指を使って少しよじりながら、石の『鋏』を当てていた。『鋏』はそれらしい形をした石二つをびょうか何かで留めたもので、本来刃があるべき部分は丸く、髪の一本ですら切ることもあたわぬように見える。
 しかし、『鋏』の刃が触れた部分から、音もなく痛んだ毛先が切れて、力なく落ち、板張りの床へ扇のように輪のように散らばっていく。
 それは、アルドラからすると、とても不思議な光景だった。
 アルドラの視線に気づいたコーデリアが、肩をすくめる。
「ウィルの髪は、いつも私が揃えているのよ。
 伸びるのが結構早くてね、もう慣れたものだわ」
「よく、そんなので切れるもんだな」
「そう? ここの人たちはみんな同じことを言うけれど、そんなに不思議なのかしら?」
 サンダイルと呼ばせる異世界から『塔』を通じてやってきた人々は、他の者たちとは少し違う感覚を持っている、らしい。
 万物万象に宿るアニマと称される力を引き出して、術とほとんど同じ現象を起こすのだ。
 だから、この『鋏』がアルドラの髪を切ることができているのも、石から力を引き出して、とても繊細な力で操作された術によるものなのだろう。
 生来の膨大な魔力を持つが故か、制御の苦手なアルドラからすると、目の回るような話である。
「オレがアニマとやらを使うことができても、こんなに細かいことはできそうにないよ」
「……私もね、前は石からアニマを引き出すの、少し苦手だったのよ」
 今度は前方に回り込み、髪の一房を手に取りながら、コーデリアはアルドラの耳許で囁く。
「でもね、ウィルと出会って、一緒にいろんなところに冒険に出て……。
 それからここにやってきて、ウィルがずっと隣にいてくれて。
 ウィルは、アニマをつかむのがすごく得意なの」
「つかむ?」
 反射的に問い返したが、アルドラには理解できないようで、その実、感覚的にはこうではないだろうかと何となくは類推できた。
 昔、ミルザと出会う前。
 その頃からも無意識的に魔力を使っていたようだが、感情に呼応して炎が漏れ出ていたというだけだった。
 術法と、それから魔力という力の存在を理解し、己が内でうねるその力を認める。教えを受けて、初めて炎を思い描いたままの形にできたときのその感触は、たとえば盗みを働いて成功したときとか、あるいは小金を得るための小競り合いに勝ったときとは全く異なるものであった。
 えぬものを五感以外の何かで感じ取り、指向性を与えて触れられる形と仕立てる。アニマとやらを扱うことも、そのようなものなのだろう。
「そう……、口でいうのは、結構難しいんだけれど。
 目隠しをして風をつかむというか、人混みの中でひとつの声だけ聞き分けるとか、そんな感じって言えばいいのかな?
 とにかく、ウィルはそういうのが得意なの。だから術もすごく上手。
 私が、石の術のことが何となく分からないなって、ちょっとこぼしたことがあったの。
 そのときに、少し失敗しちゃって。今思い出すと、しょうもない愚痴だったんだけど……、ウィルは聞いていたのよね」
 赤ずきんの少女は、先ほどとほとんど同じ調子で、アルドラの髪を整えていく。少女の小さくて、槍使いだからか皮の厚くなった左の手のひらに毛束を乗せて、右の手で持った『鋏』を当てると、一瞬よりも短い、刹那の間だけ不可思議な何かが『触れた』かと思えば、手のひらの中の朱い髪があっさりと切れている。
「ウィルから声をかけてくれて、石の術の練習を始めたの。
 そのためには、石のアニマを感じ取ることが大事だけど、そこは……元々持って生まれた資質も必要なところだから、少し大変だったかな。
 でも、ウィルも根気強く教えてくれた。結構時間がかかってしまったけれど。
 だから、今、こうしてあなたの髪が切れている訳ね」
 むしろ、こういう細かい作業なら、私の方が得意になったのよ。
 そう嘯きながらコーデリアは別の房を手に取る。
 後ろや横髪の処置が終わり、前方の作業に取りかかったため、アルドラの視界の中には二つの長い三つ編みを垂らしたコーデリアがいて、アニマを操って『鋏』を扱う様子や、その表情を伺うことができる。まだ何となくあどけなさを残した顔立ち、ぱっちりと開いた両目は木苺のように赤い。そして、その頬もまた、紅い。
「さあ、終わったわよ。
 モニカ様、またアルドラに鏡を貸してあげてくださいな」
 照れてしまったのか、はにかみながら小首を傾げてみせるコーデリアは、アルドラから見ても可愛らしい。
 まるで、まるで――恋をしているようだ。
 その姿がまぶしくて仕方なくて、アルドラは目をすがめた。
 似たような想いを抱いている。だけど、決定的に異なる点がある。
 そのことを思うと、まなじりに熱いものが浮かびそうになり、アルドラはゆるく首を振った。
 少しだけ乱れた髪をまた整えるように、コーデリアが手櫛を通す。香油を伸ばし、毛先に鋏を入れた朱の髪は、うっとりするほど指通りが良かった。
「あなたのことを見ていると、こういう話がしたくなるの。
 ――不思議ね」
 コーデリアはまた、アルドラの耳許で、アルドラにだけ聞こえる、それは小さな声で囁いた。
 少し離れたところで一部始終を見ていたモニカが二人の元へ近寄り、そしてアルドラに先ほどと同じ鏡を渡す。
 鏡の中の娘は、笑ってはいない。
 さりとて、不機嫌ということではなく、自らの変化にまだ内心が追いついていないだけのようだ。
 ぱっと見ただけならば、先ほどまでとほとんど変わりはない。しかし、少し鏡を離して、二つ三つと数を数えた後ならば、ちゃんと分かる。
 これまでも、先ほどモニカの手により香油をつけられてからも、何となく歪んで見えた髪の端の線が、綺麗に切り揃えられていた。
 髪を結っても下ろしても、何となく乱雑な印象があった朱の長い髪が、重力に従いすんなり素直に落ちて、そしてすっきりとまとまっている。
「モニカさま……それと、コーデリア、本当にありがとう。
 オレ、こんなことしてもらったの初めてだったから、なんて言えばいいのか……」
 年頃の少女らしく、わずかに頬染め、目は伏せて、ぎこちなく微笑んで見せるアルドラを、蜥蜴だの野良犬だのとたとえる者はいないだろう。
 モニカとコーデリアは、ほとんど同時に顔を見合わせて、それからにっこりと笑った。 
 生まれた世界も立場も異なるが、モニカとコーデリアは、アルドラも含めてとある共通点・・・・・・を抱く少女たちである。
 そして、彼女がどのような境遇にあったか、そしてその先のことも――少しではあるが、伝え聞いてはいた。
 元々が優しく、そして強さも兼ね備える少女たちなのだ、似た立場にある者は助けようと思う。それは、ほとんど当然に近い心の動きだった。
 ハイチェアから降りて、ややたどたどしい所作でアルドラは二人に頭を下げる。
 そんな大げさなとか、少女たちがやいのやいのと、またかしましいやりとりをしているところへ、近づく女性・・が一人。
 彼女も、この一部始終を見ていた者の一人である。
 もはや戻れない時間への憧憬と重ねて。
「ここまで綺麗にしたんだし、もう一工夫、加えてみない?」

「慣れてなさそうだから、少しだけよ……。そんなに警戒しないで」
 ハイチェアへと逆戻りしたアルドラである。
 その面もちは、これまでにない緊張感に満ちていて、悲壮、という言葉すら浮かぶほどであったが、周囲はというと、穏やかというか暢気というか、とかく、アルドラの心境からかけ離れていることは確かだ。
 そして今、アルドラの目の前に立ち、よく分からない道具で粉のようなものを頬に押しつけてくる女。
 この女のことこそ、アルドラにはよく分からなかった。
 否、全く見知らぬという仲という訳ではない。ともに遠征に赴き、寝食を共にしたこともある。
 太陽や向日葵を思い起こさせる明るい色合いの髪、海のように深い色の瞳、すっと通った鼻筋に、厚くも薄くもない、形良い唇。アルドラと同じか、それより少しくらいは背が高く、出るところは出ていて、それでいて腰回りはきゅっと引き締まっている。
 モニカやコーデリアとも異なる世界から来た、銃などと呼ばれる、弓でも魔法でもない飛び道具を使いこなす女。
 元の世界ではもでる・・・とやらを生業なりわいとしていたその女は、もしかすると塔士団で一番洒落ている人間なのかもしれなかった。
 ゆえに、アルドラから見れば、正直得体の知れない人間だ。
「アルドラさん、落ち着いて大丈夫ですよ。
 お化粧であれば、エミリアさんにお任せしていれば、何の問題もありませんから」
 そうは言われても、そもそも化粧とやらに全く縁がなかったのがこれまでのアルドラである。
 モニカは、先ほど店員から受け取った紅茶を楽しんでいるようだ。
 先ほど一仕事を終えたばかりのコーデリアは、アルドラの様子を伺いつつも、ウィルと談笑をしているところだ。
 つまり、二人とも、アルドラを助ける気はない、ということである。
「こらこら、まっすぐこっちを見なさいって……ああああ! アイラインがずれちゃった!
 本当に噂通りのなのね、あなたって」
 目線だけで訴えても効果がないので、上半身ごと向き直ろうとしたが、さすがにエミリアが阻止をした。その一瞬だけ、唇を尖らせて頬を膨らまし、いかにも怒っているという表情が作られる。が、次の瞬間にはまた、いかにも楽しげな、何かを企てているような笑顔に戻っている。百面相とはこのようなものを指すのだろうか、とひやっと冷たい布を目尻に当てられながら、アルドラは思ったのだった。
「う〜ん、さすがに十代の肌ね。なかなか手強いけれど、うらやましいわ……。
 あんまりキツい色はやめておこうかな、でも、頬紅チークくらいは乗せてもいいか」
 モニカといいコーデリアといい、そして今回のエミリアといい、アルドラの髪やら顔やらをいじる面々は、ひどく楽しげにことを成す。
 そのことが、アルドラにはくすぐったく、少しだけ悔しく感じる気もしたのだった。
 エミリアはテーブルにおいた小物入れポーチから筆を取り出す。
 その筆を、アルドラにとっては得体の知れない何かに押しつけて、それから頬をそそっと撫で上げられた。こそばゆい感触に、背筋が伸びて、肌が粟立つ。
 それから、エミリアは先ほどよりも小さな筆を取り出す。先ほどとは毛並みがまるで違うそれを見て、用途も異なるのだとアルドラにも察することができたけれど、具体的にどうするのかは想像も付かないところであった。
 細い筆先で、今度は液状の紅い何かが掬い取られていく。粘度で言えば、先ほどの香油と同じか、それよりももったりとしていて重いようである。
 エミリアの白く伸びた指先が、その手に握られた赤に染まる筆先が、アルドラの顔へと伸びていく。思わず退けてしまいたい衝動に駆られるが、そこはぐっと我慢する。
 筆はアルドラの唇にそっと置かれた。
 その輪郭をなぞるように、そして元より赤い唇を紅く塗りつぶすように、細かく丹念に動いていく。
 筆から紅い色が抜けた頃、今度はアルドラの唇が紅く染まっていた。
 べたつく口周りに全く慣れず、唇の上に置かれたものを舐めとろうとしたけれど、ダメよ、とやんわり叱責されたので、下唇を軽く噛む程度にしておく。
「よし、これで仕上げ!
 ――二人とも、どうかしら?」
 エミリアのいう二人とは、もちろんこの場ではモニカとコーデリアの二名を指す。
 呼ばれた二人は立ち上がり、小走りで駆け寄ってくる。
 そして、化粧を終えたアルドラの顔を真正面から見て、まじまじと見つめて、それから互いに顔を見合わせ、こくり、と頷いた。
 これならいける、絶対にいける、という声が聞こえたような気がする。
「…………?」
 エミリアは、いかにも大仕事を終えたというていで、満足そうに笑っていた。
 その清々しい笑顔に、寂しさを見出した者は誰一人としてこの場にはいなかったけれど……。

◇◆◇

 ただ、空腹を満たしたかっただけなのに、水を吸うだけ吸って吐き出せないような、ずっしりとした疲労感がある。
 実際、出かける前よりも荷物は増えたが、小さな紙袋一つに収まる程度である。中身もそう多くないし、重くもない。――モニカやエミリアから押しつけられたものである。とはいっても、それぞれ形が違う小瓶が三つだけだ。重さなど、感じるはずもない。
 だから、アルドラが今、疲れとか身体の重さとかを感じているのは、食堂で出会った女三人にやりたいようにされたからである。
 まったく、ろくでもない日だった、と言い捨てるのは、とても簡単なことだ。
 しかし。
 頬を撫でる、つるりとした髪の触りと、ほのかな花の香り。
 唇に乗せられた口紅はまだぺたぺたとしていて違和感を覚えるが、少しだけは慣れた。
(そんなに悪くもなかった……かな?)
 だが、疲労感の原因は間違いなくくだんの三人であることも間違いないので、一言くらいは言ってやるべきだったと、アルドラはこぼすつもりだった文句の代わりに、大きなため息をひとつだけついた。
 食堂を出るときの、三人の顔が、脳裏に焼き付いている。
 皆、笑うには笑っていたのだが、それだけではない含みがあった……ような気がする。
 遅い昼食から始まった茶番からようやく解放されて、宿場に戻り、のたのたとした足取りで階段を昇り切ったアルドラの目に、銀の光が飛び込んでくる。
 否。
 二階にあるアルドラの部屋の扉の前で、その人が佇んでいた。
 銀の甲冑を全て取り払って、綿生地の簡素ラフな衣類に袖を通したその人は、傍目には平時よりも小さく見える。
 だけど、アルドラにとっては他のどんなものよりも大きな存在だ。
 彼がいなくては、今のアルドラはいない。
 彼がいないこの先のことなど、想像することすらできない。
 彼がどんなに大きな目的のために戦っていて、下手すると、この人自身は、己の未来さきのことなど考えてはいないかもしれないけれど……。
「アルドラ、戻ってきたか」
 彼女の部屋の前で、ミルザが彼女の帰りを待っていた。
 階下から昇ってきたアルドラの姿を認めて、ほっと息をついてから、彼女に向けて笑いかける。
「――ミルザ!」
 呼応するように、アルドラは微笑んだ――うまくできたかどうかは、分からない。
(出かけなければ良かった)
 一瞬、そう思ってしまった自分を、アルドラは恥じる。
 慣れない経験ことばかりで、ひどく疲れてしまったが、今日の日にあの食堂で起こった出来事は、そう悪いことではなかったはずだ。
(ミルザも、ここで友人ができるといいって言ってたし。
 ……友達って、ああいう感じでいいのか?)
 ここに来てからの人間関係は、アルドラにとってそう悪くはないはずだ。彼女を悪し様に罵る人間は、少なくとも塔士団にはいない。任務とやらのために遠出して、そこでいつものような失敗をしても、アルドラを嘲る人間はいないし、それどころか一緒に術の訓練をしようと誘ってくれさえする。
 そう思案に耽って戻ってこないアルドラの姿を、男は眺めていた。
 彼女の姿は、普段とは少し違う。
 いつも飾り紐で結い上げている長い髪は下ろされて、肩に背中にそのまま流れている。朱色の髪は西の窓から差し込まれる斜光を受け、てらてらとした光彩を返していた。
 一歩、近寄ってみる。
 アルドラはミルザよりも頭一個分かそれよりももっと背が低い。だから、距離を詰めるほどにアルドラが見上げる形となる。
 その動作と共に、花の甘い香り立ち、光に照らされた女の顔がはっきりと見えるようになる。
 軽く白粉おしろいはたいた肌はいつもよりも白く、頬もいつもより赤く見える。その中で口紅を引いた二枚の唇が、立体的に浮かび上がっている……まるで、熟れた果実のようだ。
「ミルザ?」
「――おかえり、アルドラ」
「あ、ああ、そっか、そうだった。
 ただいま、ミルザ。少し久しぶり、だな」
 お互いに剣という獲物武器を扱っているものの、得意分野が異なる二人である。それぞれ別の任務依頼を言い渡されることも多い。共有できる時間は、それほど多くない。
(それは、元の世界マルディアスでも同じだったし、そんなに浮かれた人間でもない)
 だからなのか、互いに同じ世界の同じ時間から来たからなのか。
 アルドラが任務から帰ってくると、大体の場合、ミルザが出迎えに来るようになった。
 今回のように、帰還の時間帯が遅かったり、互いに別の場所へ赴いている場合などは、落ち着いてから食事を共にしたりなどしている。
 それは、元の世界マルディアスにいた頃とは明らかに異なる点で、アルドラも少し戸惑っている事案ことではあるのだが。
「氷湖はマジで寒かった、凍え死ぬかと思ったよ」
「大丈夫か? 何か暖かいものでも持ってくれば良かったな」
「ああ、そこは気にすんなって。さっきスープを食べてきたばかりだしさ、今は平気だよ。
 それに、オレ以外の全員も、火の術法を使える奴らだったから、暖は取れていたんだ」
「……そうか」
 ふっ、と少しだけ力の抜けたような笑みをミルザが見せたので、アルドラは目をしばたかせた。
 ミルザへの想いを自覚して幾星霜、あらゆる表情を収めてきたつもりのアルドラだが、彼のそんな表情かおを見たのは初めてだったのである。

 何がどうしてこうなった。
 と、口に出して言ってしまえれば楽になれる気がする。
 実際はどんなこと、とてもできないのが世の中というものである。
 アルドラはまた、椅子に座っていた。
 己の内側で、今まさに爆発せんとばかりに早鐘を打つ心臓が、うるさくて仕方なくて、耳を塞ぎたくなる。が、それは叶わない。
 彼女の手には、今、銀色の手鏡が握られている。
 波打つような形状の枠に小さな花がいくつも彫り描かれた、それは可愛らしい逸品である。
 今しがた、ミルザから贈られたものだ。
 アルドラが遠征に行く前に、ミルザには別の任務が入ったため、バンガードを離れていたのだが、その先にあった街で売られていたもの、らしい。
(……ここに来てから、何かとモノをくれるんだよな、ミルザ)
 オレにはこんなの似合わないよ、と突き返そうと思った。
 実際に、例の柘植の櫛のときには、そういって受け取らなかったのだが、その時のミルザの表情が、またそれまでのアルドラが見たこともなかったもので、すぐさま翻意したことは、まだ記憶に新しい。
 ――目を見開き、息を飲み込み、色という色を失くして、呆然としたようなミルザ。
(さすがに、あんなミルザの顔は、二度と見たくない)
 自分などのために、ミルザにあんな顔をさせたくはない。
 アルドラは、右手に持つ手鏡の中を覗き込む。
 鏡の中のアルドラは、多少こわばってはいるものの、何とか微笑みを浮かべてはいた。
(それで、良かったのかもしれない)
 多少以上の緊張感がなければ、今頃表情筋がゆるみにゆるんで、実にだらしのない表情かおになっていたはずである。
 なぜならば、鏡面に映る己の後方に、彼の人がいるから。
 ミルザが、以前アルドラに贈った柘植の櫛を手に持ち、彼女の朱い髪を梳いているからだ。
 彼の手にはとても小さいだろうに、それでも器用に櫛を使い、少なくはないアルドラの髪をひとつにまとめている。
 宿場に帰ってきたとき、アルドラの髪は下ろされていたから、結ってやろうか、というミルザの申し出に、アルドラはすぐさま頷いたのだ。
 ひとつにまとめた髪を結い上げるためか、ミルザの硬い指が首筋に触れたので、アルドラはびくりと身を震わす。
「すまない、痛かったか」
「いや、そうじゃないけど、少し、くすぐったい」
「それは、我慢してくれ。私も、それほど慣れている訳ではないのだから」
「……分かってるよ」
 ミルザの銀の髪は、アルドラほどではないが長い。
 そして、男性だからであろうか、それほど気にかけられてはいなさそうだ。
 それでも、陽の光を受けて、きらきらと煌めいている。
 近づこうとも遠く、されど、確かに遙か空の彼方に在るもの。
 夜空に瞬く星のようだ。
(触って、みたいな……)
 あなたが振るう剣の軌跡は、銀の輝きそのものので、とても美しい。
 いつかそう告げて、ミルザの髪の手入れをしてみたいと、アルドラは思う。
 だけど、その想いは、今は胸に秘めたまま。
 彼の人の指が、アルドラの髪に、首筋に、耳朶じだに触れる。
 朱い髪が、彼の人の手によって、形を変えていく。
 いつものように、いかにも真面目な顔つきで、ミルザはアルドラの髪を結っている。
 そのことがたまらなく幸せに思えて、今はそれだけで十分なのだと、アルドラはくすぐったそうな声を漏らしたのだった。

◇◆◇

 長く長く伸びた彼女の髪を、くしけずる。
 その度に立つ花の香りが、彼の人の鼻腔をくすぐった。
 左手で触れる朱い髪はするするとした触り心地で、絹などの上質の生地を思い起こさせる。
 束のようにしてまとめた髪は、しっとりと濡れているような感触で、いつまでも触れていたくなる。
 だけど、乱雑に扱ってしまえば、一、二本程度は簡単に抜けてしまうのが女性の髪である。
 注意をしながらひとつにまとめるも、彼女は痛がるように身を震わす。
 肩越しに、半ば無理矢理に押しつけた・・・・・手鏡を覗く。
 鏡の中の少女は、むず痒そうに眉間に皺を寄せていたけれど、目を嬉しそうに細めていたし、紅が引かれた唇も三日月を描いていた。大したことはない様子だ。
 ほっと、胸を撫で下ろす。
 そして、また、量の多い髪を左手にまとめて、右手の櫛で何度も梳いていく。
 そのうちに、朱く燃えるような色合いの髪ではなく、それに隠された首筋へと視線が移っていく。
 貧民街スラムで生まれ育ったという彼女の身体には、生々しい傷跡がまだ残っているし、衣類に頓着しないためか、日焼けをしている部分もままある。
 だけど、その首筋だけは、日焼けの痕跡はなく、ましてや、傷の跡などもなく、まぶしさを感じるほどに、白い。
 燃えさかる炎を想起させる彼女の生き様の中で、この隠された部分だけが、深雪のように、白い。
 この乙女アルドラの白く、折れてしまいそうに細く、そして艶めかしい首筋に、思い切り噛みついてみたい、と彼は思った。     
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