逢瀬

 真昼の灼熱の余韻をたっぷりと含んだ風が、岩と砂ばかりの大地を吹き抜ける。
 乾いた風に吹かれれば、瑞々しい乙女の柔肌も干からびてしまうが、幸いにしてこの街の近くにはオアシスがある。
 それでも水が貴重品であることも確かなことで、実際、アルドラが手にしている小瓶に入れられているのも、真水ではなく、果実を発酵させて作った酒との混ぜものである。
 コルクのふたを開ければ、花にも似た、ほんのりと甘い香りが心を和ませた。小瓶の口に直接唇をつけて傾ける。中にある水は甘くはない。苦味と酸味が混じり合うそれは決して美味ではないが、ひりりと乾き始めた喉を確実に潤していく。
 あの邂逅から一週間。
 アルドラたちはブハンギ砂漠の騎士団領の首都であるミルザブールに身を寄せていた。
 何せ、多少の(そして無意識の)手加減はあっただろうが、神という絶対的な存在と刃を交えたのだ。生きて帰ることができたからこそ、風に吹かれたり水を飲んだり、物思いに耽ったりなどしているが、もちろん無傷では済まなかったし、不毛の地での野宿を続けては、疲れも取れない。
 そして、騎士団領の人々に、正義の神であるミルザがこの世界ディミルヘイムにおいても顕現したことと、紆余曲折はあったが今は健在であることを伝える必要もあった。
 そもそもにして、マルディアス元の世界における騎士団は、サルーインを封じたミルザを慕う騎士たちが寄り集まって成り立ったものである。彼らにとっての忠誠と信仰の対象である戦神ミルザが、この世界でも存在している事実に、騎士団領の人々は沸き立った。ミルザの顕現を祝して祭りを開いてしまうほどに。そして、それはある意味では、アルドラたちの思惑通りでもあった。
 神としてのミルザは正気を取り戻したが、存在が安定しきっているとはいえない。マルディアスにおける神々の父、エロールでさえもこの世界ディミルヘイムでは人として存在せざるを得ない状態である(エロール神の場合、ミルザとはまた違う背景があるからではあるが)。
 彼らが由縁の地、マルディアスにおいて。
 神が神として存在を保っているのは、無論、神として生まれたが故の強大な力があるからであるが、それだけではない。
 かの地に住まう人々が神々の実在を信じ、祈り、時には憎むこともあるけれど、己と他のために願いと何か・・を捧げる。そのような人々の信仰が、神々の支えとなっていたのだ。
 同じことが、このディミルヘイムでも言えるのではないか。
 これまでは、この世界に存在するかどうかも不確かだったのである。
 神としてのミルザの健在を騎士団領の人々に伝えれば、それだけでミルザへの信仰心は強まり、存在の安定へとつながるのではないか。アルドラたちはそのように考えたのだった。
(……単に、ミルザがちゃんとここにいるって、言いたかったのもあるけど)
 そこにいる誰もが耳にしたくて仕方がなかった朗報を受け、ミルザブールでは昨今の情勢への不安をも吹き飛ばす勢いのどんちゃん騒ぎが続いている。酒に呑まれて羽目を外す者さえいる有様であり、騎士としての本分はどこに行ったのか、と首を捻りたくもなるほどである。しかし、喜びと喜びとしてそのまま受け止めて、祝いたくなる気持ちもまた分かるものだ。
 自身の心にある想いを、押し込めることなくそのまま表すこと。
 それが出来る人たちが、心底うらやましくて、時折憎いと思うことすらあった。
 それが出来なかったからこそ、アルドラは千年もの責苦に苛まれることになった。
 だけど、それがなければ、今のアルドラはここにはいない。
 つまり、ミルザと再会することも叶わなかったのだ。
 飲み水の入った小瓶を右手に持ち、左の薬指に二枚の唇を寄せてから、アルドラは夜空を見上げた。
 藍色の緞帳に縫いつけられた星が、きらきらと瞬いて、地にいる人々を伺っている。
 ――マルディアスにおいて神々は、そらから星として人間たちの営みを見守っているのだと伝えられていた。
 それは、このディミルヘイムでも同じなのだろうか。
 祭りと喧噪から離れ、ぎりぎり街並みの灯りが見えるくらいの岩場まで行き着き、アルドラはまだ疲労の残る身体を冷たい岩にもたれかけさせる。
 たとえ慶事があっても、魔獣モンスターというのは分かってくれないし、待ってもくれない。
 一度は平穏が訪れたように見えたディミルヘイムだが、降魔現象が認められてからというものの、魔物たちもこれから起こることへの予感にざわめきを感じているようだった。堪えきれなくなった魔物がまた人々を襲い始めている。騎士団領に戻ったアルドラたちは、そこで身を休めつつも、体調のいい時には討伐に赴いていた。
(きっと、ミルザだったらそうするだろうし。
 ……ミルザの隣に行きたいんだったら、これくらい、やらなくちゃ)
 サルーインを封じて神が一柱となったミルザの隣に行くために。
 ミルザと釣り合う存在になるために。
 アルドラは、この世界ディミルヘイムにて神性になるとミルザの前で誓ったが、そのときに共にいたダークやウルピナ以外の人間にはそのことを話してはいない。
 わざわざ大っぴらにする話題でもないということもある。
 しかし、あの場では大々的に宣言したものの、具体的な方法があまり思い浮かばないという情けない事実もあった。
 大きな災厄を祓ったばかりの、未知なる大地。
 不穏な動きがあるにはあるが、だからといって、己がために邪神、もしくはそれに匹敵する何かの出現を望むほど愚かではない。
 ならば、この世界のために、ミルザのために……今の自分には、何ができるのだろう?
 アルドラは、自らに問うてみる。
(オレたちをディスノミアからここまで引っ張ってきたっていう、創世主……。
 リベルなら、何か手がかりを知っているかもしれない)
 この世界ディミルヘイム文字通り・・・・創り上げた、創世主リベル。
 太陽神バラルの使徒として造り生み出されながら、限りなく人に近い身体と心を持ち、しかし人ならざる存在もの
 彼であれば、アルドラが望む道のしるべを示せるかもしれない。
(ーーでも、その前に、礼を言っとくべきだよな)
 マルディアス元の世界では、忘却による赦しを受け容れられず、千年もの間、罰と裁きに苛まれ。
 ディスノミア前の世界に喚び出されてからは、奇妙な繰り返しの中で、望み通りの形や、それとはまた違う形を垣間見ることもあり。
 その間で、泡沫に似た夢を見た気がするけれども、それはきっと、別の話。
 そしてこのディミルヘイム今の世界で、ミルザと再会することができた。
 それはやはり、リベルが幾千、幾万と繰り返されたディスノミアの四十年を無へと帰したくないと強く願い、それを叶えたこの結果、すなわちディミルヘイムが創造されたからこそである。
(何はともあれ、創世主様とやらにも、早く会ってみたいもんだ)
 アルドラは、すいと視線を上げた……満天の星空だ。
 見上げる夜空に、一筋の流れ星が過ぎる。
 一瞬で消えてしまう、儚いもの。しかし、その閃きは視界に焼き付くほど鮮烈。
 マルディアスでも、同じものを見たことがある。
 星のひとつが輝いて、尾を引き夜空を裂き、消えてしまうまでの間に願いを唱えることができれば、それは叶えられるのだと、あの人は教えてくれた。
 そのときのアルドラの隣にはミルザがいて……さらにその隣には、オイゲンがいたし、周りには他の仲間達やつらもいて、同じ夜空を見上げていた。
 今、ここにいるのは、アルドラだけだ。
 アルドラだけしかいない。
 千年前、ミルザとともに戦ったものたちは、誰一人としてディスノミアに喚ばれなかった。
 少なくとも、アルドラはディスノミアの繰り返しの中で、一度たりともかつての仲間たちと顔を合わせなかった。
 ディスノミアにおけるアルタメノス帝国の40年の歩み、砂時計をひっくり返すように繰り返すこと幾千回、気が遠くなる、という言葉ですら陳腐に感じてしまうほど永い時間の中で、知己の誰とも出会うことはなかったのだから、彼らはかの地に喚ばれなかったと考えるのが妥当だ。
 それは、次元の檻に囚われずに済んだということでもある。その意味では幸運だったとも言えよう。喚ばれてしまった、アルドラやミルザとは違って。
 しかし、アルドラはたどり着いたこの地で、幸福を得た。
 ――マルディアスに帰りたいか。
 今見上げているものにとてもよく似た、数多の星が煌めく夜空を、ミルザやオイゲン、そして他の仲間たちとともに眺めてみたいか。
(オレは……ミルザが…………)
 胸の中に渦巻く思いがあることは確かだ。
 それを言葉として形作ることができない。
 口を小さく開いては閉じる。それを何度か繰り返す。
 アルドラの高く結い上げた髪を夜風が揺らす。
 砂丘を形成する乾燥地帯において、昼中ひるなかの焦熱は耐え難いものがあるが、日が沈んでからの冷え込みもまた容赦ない。その温度差が作り出す風は強く、砂粒などは当然巻き込まれる。
 ところどころ破けた衣服とか、短く切り揃えている爪の中、毎日くしけあかい髪に砂が絡んでいくことを気にせず、唇やその奥、舌とか頬の裏側にまとわりついても構わず、アルドラはつかむための形もない思いを胸に、瑠璃ラピスラズリにも似た空を見つめ、その向こうにいるだろう人のことを想っていた。
 そうして、どれだけ時間が経っただろう。
 またひとつ、星が一際明るく煌めいて、暗い夜空に一筋の線を描く。
 ――天の星々の輝きは、人の世を見守る善き神々のまなざし。
 星が地にこぼれ落ちるとき、地で生きる誰かの願いが叶うのだという。
 気まぐれのようなそれは、奇跡なのかもしれないし、あるいは恩寵とも呼ばれるものなのかもしれない。
(何でもいい、あの人の隣に、行けるのならば)
 たった一粒の星に、大層な力などないことは、アルドラにも分かっている。
 それでも、願わずにはいられなかった。
 ずっとミルザの隣にいるために、彼にふさわしい存在になる。
 宵の瑠璃色を映していた瞳を閉じ、手にしていた小瓶は小脇に抱える。そして、右と左の指を組んで合わせた。
 砂の混じる風の音を耳で聞きながらも、意識の大半は自らの内側へと沈める。
 身体は現世うつしよに置きながらも、心は遙か遠い彼方へと向ける。
 それは、普遍的な祈りの姿勢だ。
 彼女・・は貧しい生まれで、まともな教育など受けていない。だから、祈りに作法があるかも知らない。その姿は、神官などの目には不格好に映るかもしれない。
 だが、祈りの本質は、純粋に乞い願う心である。
 どれだけ尽くしても、重ねても、己が力だけでは届かないものが、この世にはいくらでもある。ゆえに、諦めてしまうことも、うまく生きていく上では有用な選択肢となる。
 だけど、どうしても叶えたい願いがある時、人は祈る。
 想いの強さを認めたとき、祈りが美しいと感じたとき、または、もっと別の理由わけがあるとき……祈られた者は、静かにその手を差し伸べるのだ。
 流れる星の一閃を目にしてから、しばらく。
 星はもちろん、地上のどこかへと落ちていった。閉じられたアルドラの目はそれを見届けてはいないが、分かり切っていることではある。
 それでも、彼女は姿勢を崩すことなく、祈り続けていた。
 瞳を閉じて、風切りの音を聞いて、頭から靴の先まで砂にまみれて、声にはしないけれど、願いを心の空に描き続けていた。
 だから……自らの身に近づく異形、その気配の察知に遅れてしまった。

◆◇◆
 
 ディミルヘイムの騎士団領は、砂の中にある。
 そのことを、彼はつい最近知ったばかりだ。
 見慣れたようで、見慣れない景色の数々を俯瞰の視点で眺めてみる。
 先日の降魔現象の爪痕はまだ生々しく残っているが、
 騎士団領という国も、ミルザブールという己の名前を冠した街も、としての彼にとっては、実のところ、馴染みのない場所ではあった。
 ――邪神を打ち倒し、人としては死したものの、神として天へと迎え入れられたちょうどその頃に成立した国なのである。
 元より己を慕っていた者や、邪神討伐という偉業を成したことで讃える者、その強さにあやかりたい者などが寄り集まり、荒れ地を開墾してできた街。
 新たに人の街が造られる。そして、人がえていく。
 それは、長きに渡る邪神との戦いが終結に至った故の変化、新たな始まりでもあった。
 ……そこにいてほしかったはずの人、そのために置いてきたはずの人がいないことに、痛む心があるのは人間ひととしての名残か。
 しかし、一方で安堵もあった。
 罪は浄められ、魂は流転し、命は巡っていくのが輪廻のことわり
 それが分かっていたから、最期の瞬間ときにだけは苦しみはあれど、その先にある安らぎと新たな目覚めを知っていたから、彼女の魂は自身が命を賭して守った世界で幸福を得るはず。そう信じていたのだ。
 ――――まさか、己への想いがゆえに、彼女が彼女であることを捨てられず、1000年もの間、誅罰を受けてきたなど、思ってもいなかった。
 許し難い道を進む者の壁となり破れた記憶、赦せない己の愚行。
 分かたれた世界がひとつとなり、何もかもを思い出したその時、彼の意識は暗転した。
 そこから救い出してくれたのは、他でもない彼女アルドラだった。


 
 さて、予断を許さぬ状況であるし、いかに騎士であれど、甘さがあれば未曾有の事象に立ち向かえない。
 しかし、いつまでも気を張ってもいられないのが人間というもの。
 何より、戦神を奉ずる騎士団にとっては、これ以上ない朗報がもたらされたのである。
 ……からしてみれば、多少こそばゆくはあるものの、そういった人々の喜びも力となるのだ。
 意識を己の手の内に取り戻し、天の御座より沸き立つ人々を眺める。
 騎士団領では先日から、ミルザの顕現とその無事を祝しての祭りが催されていた。
 日頃より厳しい鍛錬を積む騎士たち、その暮らしを支える職人たち、商魂たくましい商人たちとすれ違う町娘、誰も彼もその表情かおは明るい。
 元の世界マルディアスにて神として存在していたときも、武人として見所のある者や特に信心深い者には目をかけて、時折力を貸すなど、地に生きる人々の営みを神として見守ってきたミルザだが、ここに来て多少異なる事情が出てきた。
 そもそもにして、世界そのものが異なるということもあるが。
 日が落ちても賑わいの絶えない広場を見やる。……どうやら、そこからは離れてしまったようだ。元々、好んで人の輪に入る性質たちではないと彼も分かっている。
 入り組んだ細道、路地裏、あるいは宿……そのどこにも姿は見えない。どうやら、街にはいないらしい。
 視線を少しだけずらしてみると、そう離れてはいない岩場に、懐かしさも感じる、灯火のようなあかを見つけた。
 昼と夜の寒暖差が大きいほど強くなる風は、今宵も容赦という言葉を知らないようで、視認することも困難なほどの細かい砂を巻き込みながら、人にも大地にも等しく吹き付ける。薄手の外套を羽織ってはいるが、それでは覆いきれない手腕や足に砂が張り付く。何より、長く伸ばした朱い髪に絡みつくし、目や唇にも遠慮なしにまとわりついている。 
 その髪に櫛を入れて、いて梳かして、砂を丁寧に取り除いてやりたい。
 頬についた土埃を指で細かに払いつつ、その柔らかさなどをあらためて確かめてみるとか。
 きっと、彼女のことだから、これくらい大したことないなどと言い張って、自らに向けて伸ばされた手を己の手でつかみ、口の上では拒んでみせるのだろう。事実、出会った頃の彼女は盗みを生業とする貧民街スラムの住民で、男かと見紛みまごうような……というよりは、ほとんど男同然の形で、――荒々しい言葉遣いをしていたこともあって、以外の人間は、目の前の彼が彼女であることを見抜けなかったのである。
 そして、唇で唇に触れたときのその熱さ、その弾力を知っているのは、ミルザだけ。
 ……もしも他人も知っているのならば、非常に複雑な心境になるが、杞憂らしいことに安堵している。
 あの時。
 たぶん、おそらく、それなりの無理をしていれば。
 正気に戻してくれた彼女をあの場から連れ去ってしまうこともできたのだ。
 この世界ディミルヘイムでの顕現が多少なりとも知れ渡り、神としての力が戻りつつある今ならば、それは容易く叶えられる。
 さすれば、触れあった記憶の反芻などせずに済んだだろう。
 それをしなかったのは、人の世の理への干渉となってしまうからである。
 エロールを始めとしたマルディアスの神々、秘宝の力を束ねる女神、人に技術を与えた星神たちなど、超常の力を持つ高位存在のいくつかもまた、ディミルヘイムに存在している。しかし、この世界惑星で生きていくのは、あくまでも人々なのである。創世主もそのように世界惑星を再誕させた。そこで生き抜こうとしている人間ひとに、感情のみで干渉をする。また自分自身を見失い、叶うことのなかった夢へ逃避してしまうかもしれない。それだけで済むならまだいい方だ。一見は安定しているものの、その実、創世主のをもってしても見通せぬ何かがディミルヘイムには潜んでいるようなのである。ひとつの望み、ひとつの願い、別の視点から見れば「わがまま」ともいえるそれが、この世界にどう響いてしまうのか。それはどんな存在ものにも分からない。
 そして、自身の願いを成就させることよりも、何よりも彼女の決意を尊重したいということもあった。
 マルディアスでサルーインを封じたミルザと同格の存在となりたい。ミルザの隣にいるために相応しい自分でありたい。アルドラはそのような決意を胸に抱いている。
 それは、彼から見ても……、戦神と呼ばれるようになったミルザだからこそ、困難な道だと分かる。道があるかも分からぬ旅となるだろう。マルディアスで死したミルザを神として天に引き上げたエロールも、今は力の大半を削がれている。たとえ道を見つけ、誰もが認める偉業を成し遂げたとしても、人から神になるという存在そのものの格を上げる御業みわざを持つ者は、今のディミルヘイムにはいないのかもしれない。
 けれど、アルドラは決して諦めないだろう。1000年もの痛苦に耐え、神々の謀略に巻き込まれて、混濁する精神こころに自分自身を見失いかけたこともあったけれど、内側にある想いを欠けさせることはなく、結果、ここまでたどり着いた。
 アルドラにとって、そしてミルザにとっても望みの未来は近づきつつある。
 ディミルヘイムで目覚めたミルザが今、アルドラのためにできることは、その旅路を見守ること、そして時折手助けすること……たった、それだけ。
 砂漠に乾いた風が吹き、夜空の星は瞬く。
 長いあかの髪は風に流されるがまま、目蓋は閉じられて、琥珀色の瞳は星々を映さない。胸の前で両手を組み合わせるその姿勢は祈りのためのものだ。
 アルドラの意識は、心は、おそらくミルザのいる空へと向けられている。
 天へ、神々へ、もしかするとミルザに、何かを願っている。
 ――元の世界マルディアスにいた頃、とある晩のことを、ミルザは思い出す。
 流れる星が地に落ちるまでに、声に出して願いを唱えることができれば、願いは叶えられる。
 星々の輝きは神々の力の一片ひとかけら。だから、この逸話は嘘ではないだろうが、子供騙しのようなものでもある。たった一粒の星が、大層な力を持っているのならば、邪神などとうに打ち倒されていただろうから。
 それでも、この伝承を彼女に聞かせてみせたのは、彼女が何を願っているのか、知りたかったからだ。彼女の口から、己の耳でしかと聞き届けたかったからだ。できれば自分の手で、叶えてやりたいと思ったからだ。
『そんなの……、いいよ、オレは、別に。
 欲しいモノは、自分でどうにかする。これまでだってそうだったし……。』
 しかし、元々貧民街スラム)で生きてきたアルドラである。貴族の戯れのような施しを受けたこともなかったらしい。右で飢えて力尽きる者がれば、左で血反吐を吐いて倒れる者もいる、生きるために手段を選んではいられない世界ところ。そこで生き抜いてきたから、他者を利用し、また利用されることがあっても、真の意味で頼れる者はいなかった。
『……でも、もし、さ。いつになるか、分かんねぇけれど……』
 群青の空に散りばめられた幾千の星。そのなかの、ほんのいくつかが、きらりと煌めいてから流れていく。
 それを見ていたのか、いなかったのか。
 アルドラの琥珀色の瞳は、ミルザの青い瞳だけを捉えていた。
『いつか、オレたちはサルーインと戦うんだろ?
 そんでさ……勝てたらさ、そのときに……、ミルザに、聞いてほしいことがあるんだ』
 寒地で降る雪のような、深海の貝が抱く真珠のような。
 白くて小さな星々がいくつも瞬く夜だから、周りにいる仲間たちがどんな表情かおをしているのかを伺うことは難しかった。
 けれど、そのときのアルドラの頬に、うっすらと朱が乗せられていたのは、ミルザの見間違いではないはずだ。
 願うことではないけれど、聞いてほしい何かがあった。
 あの頃とは何かも状況が違う。時代が違う、世界も違う、神と人とで立場は分かたれている……今は・・
 新しい世界で、アルドラは何を祈るのか。
 その願いに一端でも触れてみたい。
 そらの御座より、乾いた大地で一心に祈る彼女を、ずっと眺めていたから。
 彼女に近づく魔物の存在にいち早く気づき、即刻に行動へと移せたのは、あるいは1000年前からの罪過と、恋心、もしくは執着という人間ひとの心を持っているからだった。

◇◆◇ 
 
 唸るような、いななくような、怨嗟えんさのような、低い声の重なり。
 アルドラが、それが声だと気づいたのは、もはや耳に馴染んだ風切りの音とはあまりにも異なるからだ。
 そして、人間にとって意味を成す言葉の形を成していない。
 また、馬や羊といった家畜の鳴き声でもない。そもそも、こんな砂ばかりの場所に、人に慣らされた獣が迷い込むはずもない。
 すなわち……、人間とは相容れない魔性の類いの者たち。
 本来であれば、この世界ディミルヘイムの住人ではなかったのだという、忌むべき訪問者たち。
 あらゆる色彩を持つ彼らだが、日の下で見ても鮮やかだとも美しいとも思わないだろう。
 なぜならば、その爪は漏れなく乾いた赤に染まっていたからだ。肉を裂き、血に濡れた後の褐色に。
「…………っ」
 祈りの姿勢を瞬時に解き、アルドラは腰に差していた短剣ナイフを抜いて構えを取る。
 剣にも多少の覚えがあるが、それだけで切り抜けられる状況ではないことは明白だった。
 魔物の群れは、これまでほとんど無防備だったアルドラを取り囲んでいる。浜辺に打ち寄せる前の波のようだ。今はまだ、時を伺っているようだが……、誰かが一歩でも踏み出してしまったら、押しとどめるすべはない。
 琥珀の瞳が一対と、獲物を前に爛々と輝く瞳が複数。一つ目の獣、三つ眼の獣、複眼の獣、そもそも目のない獣などの群れ。
 相対しているとはとても言えない。これから始まるのはただの蹂躙であると思わせられるである。
 じりじりと魔獣モンスターたちは距離を詰めつつある。
 一挙に襲いかからないのは、それだけの知性は持っているから。
 ……力任せでは勝てない相手だと、分かっているからだ。
(こんな状況くらい、切り抜けてみせなくちゃ、ミルザのところに行けない)
 そして、待ちの姿勢は性に合わない。
 一見して、このどうしようもない膠着した状況を変えようと動いたのはアルドラの方だった。
「――――食らえ!」
 短く叫んで、小脇に抱えていた小瓶を放り投げる。
 その声が合図となるのは分かっていた。
 現に、叫んだそばから、脚のある魔獣は地を蹴って跳びかかり、翼を持つ獣はふわりとひとつ羽ばたいてから急降下を始める。
 どちらも分かり切っている動きだ。
 だから、密かに唱えていた火の術法を……視界のすべてを覆い尽くすほどの炎を展開する。撒き散らした油に火をつけるように、そしてそれを遙かに凌駕する緋色の炎は、高く投げた小瓶と、群れた魔獣のおおよそを難なく飲み込み、さらに勢いを増していく。
 飢えに飢えて、目前の万象を丸呑みにする貪欲な炎は、何かに良く似ていた。
 後に残るのは、虚無の色をした塵芥ちりあくただけ。
(……思ったより、呆気なかったな)
 手応えは、あった。
 炎の勢いの衰えを感じ取る。真昼の砂漠よりを超える灼熱に身を焼いて、無事でいられる者はいないだろう。この炎に巻き込まれなくても、熱風に巻き込まれれば、ただ呼吸をするだけでも肺は焼きただれる。それでも、まだ息のある魔獣もいるだろうが、あとはもう蹴飛ばすだけでカタが付くはずだ。
 だけど。
 魔獣も、そして人も、視界の外にいるものにまで気を払うことは難しい。
 緊迫した状況は、人の思考の幅を広げることもあれば、実際の視野を狭めたりもするものだ。
 ……もしかすると、少しばかり、慢心もあったのかもしれない。
 かつての仲間達は揃ってアルドラを嘲った、ミルザ以外は。
 1000年の時を経て、また隔たれているはずの世界の壁を越えて、多くの者たちがアルドラの力を認め、頼るまでになった。
 また、立ちふさがる魔獣たちは、数こそ多く、後れをとったことは確かだが、一体ずつであればどれもアルドラが手こずる相手ではない。
 だから、たまたま火炎の術法を苦としていなくて、少しだけ利口だったから、炎や熱風も及ばない遙か上空へと翔んで、機を伺っていた魔獣がいても、アルドラは気づかなかったのである。
きりのように鋭い切っ先が、薄くなってしまった炎の壁を突き破って、アルドラの額を突き割らんとするまで。
「!」
 流れ星のような、あるいは剣の一閃のような。
 天で瞬く希望の星、今宵も安らぎを与える月、世の遍くに恵みをもたらす太陽。
 もしかすると、それらよりも鮮烈で輝かしい銀の光が、アルドラと彼女に肉薄せんとする魔獣、そしてアルドラ自身が作り出した炎をも包み込む。
 その光の中にあって、苦しみなどは感じない。
 ただただ、まばゆいばかりだが、一方で懐かしさも感じる。
 ――彼の人と出会ったとき、話をしたとき、背を預けて戦ったとき、肩と肩とで触れあったとき、そして、唇を重ねたときに感じた、いつまでも内側を焦がす、恋い焦がれたまぶしい光。
 思わず閉じた瞳を、そっと開いてみる。
 アルドラが自分自身の記憶を失ってしまっても、この人のことは忘れなかった。
 彼と、彼への想いを喪ってしまうこと、死の神が与えし罰よりも、どんな苦痛よりも耐え難いものだった。
 星の数より多くの世界を一つに束ねたが故の弊害、自分への思いゆえに正気を失った彼を、赦しの言葉で元に戻したのは、ほんの少しだけ前の出来事。
(オレは、あなたにもらったたくさんのものを、少しでも返せたのかな)
 あの時、己を見失って暴走し、守るべき命をも手に掛けようとしていた。ただ見境なく力を振るう存在を、高潔な戦神ミルザへと戻したのは、間違いなくアルドラの言葉があってのことだ。
(あれでお互い様とか、絶対に思ったりしないけど――。
 こうやって助けられてばかりじゃ、いつまで経っても、返しきれないよ)
 アルドラの間近まで迫っていた魔獣は、よくよく磨かれた鏡のような、銀色の光の中でぼろぼろと形を崩して消えていった。
 アルドラ自身が呆けているせいか、彼女が作り出した炎も消えているし、魔獣の骸(むくろ)のひとつも転がっていない。
 徐々に引きゆく白銀の光の中に、立っているのはアルドラとミルザの二人だけだった。
 それも、いつの間にかーーたぶん、銀の光が降ってきて、その眩しさに目を閉じているその間だとは思うがーー距離というものがなくて、抱き寄せられている。
 ミルザの姿は、アルドラもよく知るものだ。白銀しろがねの鎧に身を包んでいる。長く伸ばして後ろに流したままの髪まで銀色だから、銀の戦士と呼ばれるようになった。人間ひととして共に戦っていた頃と、寸分も変わりない。
 ――その腕は小手に、その胸は鎧に包まれているから、彼が今、どれくらいの熱を持っているかは分からない。けれど、少し冷たい鎧に頬を擦り寄せると、とくり、とくりという内側から胸を打つ音が聞こえてくるような気がする。
 そもそも、神様に心臓ってあるのだろうか。
 そんな場違いなことを、アルドラは考えてしまう。
 この拍動の鐘の音が、自身の胸からのものなのか、それともミルザのものなのか、それともその両方か、分からないのだ。
 頬を鎧から離して、アルドラは視線を上げる。
 空の色そのものの瞳と目が合った。
「み、ミルザ…………!」
「アルドラ」
 1000年振りではない。世界のすべてが重ね合わせられてからは、二度目の再会だ。それも、顔を合わせたのはつい最近のこと。
 それでも、まるで久方ぶりの逢瀬のように、胸は高鳴り、手も脚も震えてしまう。
 頬に熱が集中していくのを感じる……赤く染まってはいないだろうか。
 視界がなんだかぼやけているのは、先ほどまでの戦闘からの疲れもあるだろうが、歓喜に涙腺が緩んでいるからでもある。
 ここで泣いてしまうのはあまりにも情けない。ぐっとこらえて、こぼさないようにとすがめられたアルドラの瞳に、薄い色づきのミルザの唇が寄って……溜め込まれた水の膜を、吸った。
「ひゃっ」
 人間、想像の範囲外にあることをされると、言葉にならない言葉を発してしまうもので。
 もう片方の目に溜まる涙も吸ったところで、唇は離れる。
 しかし、いくら惚れてしまったとの自覚はあっても、あまりに不埒なことをされれば、むっとしてしまうもの。
「な、何するん――」
 林檎のように熟れた表情かおで、たっぷり10秒ほど呆けてみてから、アルドラははっと我に返って抗議の声を上げようとする。
 それが最後まで続かなかったのは、今度は声を唇ごと吸われてしまったからである。
 ミルザの左手がアルドラのおとがいをしっかりとつかむ。だから、首ごと視線を下げるという手段は使えない。腰に回された右腕にはさらに力がこめられて、退くという選択肢も奪われた。
 詰まるところ、逃げ場がない。
 そして、逃げるつもりもない。
 流れるだけの星に願ったところで、叶えられるはずもない願いだった。
 だけど、諦めることはどうしてもできなかった。
 1000年前から思い描いてしまった、いくらありえないと言い聞かせても止められない甘い夢が、現うつつとなって、今、繰り広げられている。
 どうして逃れることができようか。
 己の唇で触れた彼の人の唇は、やはり熱い。だけど、どこまでも心地よい熱さで、離れたいとは思わなかった。
 二枚の唇の境目を舌でつつかれてから、その奥になる歯茎をぬるりとなぞられる。
 びくり、とおののくアルドラ身体を、ミルザの右腕が掻き抱く。だから、力の抜けつつある膝から崩れ落ちてしまうということはなかった。
 嫌ではないが、まだ戸惑いはある。……そもそも、その手の覚悟をしてここに来た訳ではないし。
 その困惑が、唇と同じく重なったままの視線から伝わったのだろう。
 アルドラの下唇をミルザの両唇が軽くんで、ちゅっ、という小さな音を残し、二人の顔が離れる。……抱き合ったままの身体はそのままだ。
 それでも、少し距離ができた分、アルドラにも思考の余裕ができたらしい。
 ただ、またしても己に戻るまでたっぷり30秒ほどは時間がかかったが……その隙を見逃さず、更なる攻勢を仕掛けてもいいと、彼の脳裏にはそんな邪念が過ぎったのだが……何かを思い、伝えようとするアルドラを待った。
 伝えたいことがある。伝えられなかったことがある。
 それゆえに、煉獄での1000年に渡る裁きを甘受してきた。
 世界を跨いでも、忘れることはなかった。
「ミルザ、あのさ……。オレ、あなたに聞いてほしいことが、あるんだ」
 ミルザは、無言で頷いた。
 ――その先にある言葉が、あの夜に聞いてみたいと思った彼女の願い。
 それが、彼の望みでもあるのだという確信が、今ならばある。
「――――――――好き、大好きだよ、ミルザ」
 琥珀色の瞳が、まだ涙で潤む。
 己の降臨とともに生じた銀の光は、余韻程度にまで収まってしまっているが、しゅに染まるアルドラの表情をはっきりと伺うことができた。
 まだ、夜は長い。
 そして、岩と砂に囲まれた砂漠ではあるが、ここにはアルドラ彼女ミルザ自身しかいない。
 久方ぶりの、本当の意味合いでの逢瀬を味わっても、罪にはならないだろう……きっと。
 アルドラの言葉に応えるように、ミルザは再び、彼女の唇に己の唇を重ねて、その後頭部、朱く長い豊かな髪を己の指に絡めて、ぎゅっとつかんだ。

(了)
    
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