拍手お礼小説その1

 空よりも少し色合いの深い青、草葉よりも鮮やかな緑、春の始まりに咲く花のような黄色、瞬きの間でも移ろう夕陽を切り取った橙。
 そして、赤。
 たっぷりと水を含んで張りつめた果実の色。盛りを過ぎて枯れる前の木の葉の色。ヒトであるならば、誰の身体にも流れている、血潮の色。
 いつか、いつの日か、その男の臓腑を刃で貫いたとき、生温くて金気臭いあかを浴びることになるのだろう。人間の体温そのものの紅血に、黄金の頭髪や生白い肌、寒色を基調とした法衣や、ただただ青い瞳も何もかも染まってしまうその瞬間ときであれば、少しはこのいろが好きになるのかもしれない。
 微風に吹かれてふらふらと揺れる風船を、ブルーは半開きの目で何となしに眺めている。その脳裏で、他人ひとの価値観からすれば物騒で血生臭い想像が繰り広げられていることに気付く者はいない。
 ましてや、今日は晴れの日。
 数ヶ月に一度の祝祭に沸くバンガードの街は、華やかに飾り付けられている。すれ違う人々も特別な衣裳で装っていて、普段とまるで変わらぬ出で立ちをしているブルーの方がむしろ目立っている――無論、悪い意味で。しかし、今更でもない。
 元の世界リージョン界でも見知った女が、豊かな金髪を波打たせながら、人混みの中で恋人を探しているところや、あるいは、この地では大変著名な術士の男が、やや焦った様子で間抜けなイルカ像が鎮座している広場の中央へと駆けていくところ、他にも、ブルーからしてもそれなりに面識のある人間が、平時とは少し違った表情を見せている。ただすれ違っていくだけの他人に、それほど興味を持つことはない。
 己の命を懸けた使命がある。
 そのために、世俗の浮かれた催しなどに参加するなど言語道断。
 ……ブルー自身はそのように考えているのだが、しかし、肉体、精神、魂をも分け合ったはずの双子の片割れは、また別の思考を持っているようだった。
(…………解せん)
 突如、異世界から招かれた戦士の慰労のために、この街では数ヶ月に一度、祝祭が開かれる。
 今回は舞踏会ダンスパーティというおもむきのようだ。男も女も豪奢なだけで実用性皆無の衣裳でめかしこんで、ひたすらに踊るだけ。そのことに彼は意義を見いだせないでいる。
 だから、彼とほとんど全く同じ顔をしたもう一人が、暖色を基調とした法衣ではなく、薄手のシャツにベストとクラヴァットを合わせた衣類を纏って(しかも胸元には薄紅色の石をはめ込んだピンブローチが留められている!)、何と言うこともない顔をして、陽光に照らされて明々とした広場を闊歩しているところを目撃して、この日には全く似つかわしくない稲妻に直接背中を撃たれたかのような衝撃を受けた。
 いつもは猫の毛のように跳ね、ただ流されているだけの銀髪も、今日は黒いリボンでひとつにまとめられている。
 ブルー自身とは瞳の色以外、鏡を合わせたように同じ造りをしているはずの顔にも、平時と変わらず(ブルーからしてみれば)薄気味悪い微笑が浮かんでいた。
 装いが異なれば、この表情の意味もまた変じているのではないか。
 ブルーは下唇を軽く噛んだ。痛みはない、味もしない、ただぐにぐにとした感触がエナメル質の硬い前歯を通して伝わってくるだけだ。
 前方の、腕を伸ばしてもつかむことはできないが、軽く練った魔力をそのままぶつけることは叶いそうな距離にいるルージュを、ブルーは平静の毛皮を着込んで眺めている。
 一般の、魔術王国マジックキングダムことわりの外の世界では、血を分けた兄弟姉妹は助け合うべきだという道徳が敷かれているらしい。元々ひとつであったものの全てをふたつに分け合った、双子のきょうだいであれば尚のこと、切磋琢磨して互いを高め合い、二人三脚で道を歩んでいくべきなのだと。
(反吐が出る)
 ブルーが故郷より課せられた使命を知るものは、同じ使命を背負っているはずのルージュ以外には、ごく少数しかいない。ただひとときだけ時間を共有するだけの――もっと言ってしまえば、利用しているだけの――他人に打ち明けるようなことではの倫理、価値観、その他ブルーからしてみれば決して相容れない何かしらを押しつけられることは目に見えている。
 あるいは、リージョン界元の世界の人間よりも、主張が強くて、はっきりと物事をいう輩が多いこの場所バンガードでは、事を知ってしまえば、勝手な正義感に駆られてる連中が出てくるかも分からない。
 だから、互いにこの場所に喚ばれたと知ったとき、つまり、互いがこの名前さえも分からなかったこの場所で顔を合わせたとき、そのときこそ二人は同じ思考を脳裏に巡らせ、そして実行した。
 この異界世界に滞在している間に限っては、互いになるべく干渉はしない。
 殺し合いはしないが、力を合わせるなどという綺麗事をするつもりもない。
 塔士などからの依頼を受け、同じ一行パーティで戦地に赴くこともあるが、ただそれだけのことである。
 帰るための手段は、今のところ見つかっていない。
 いつまでこんなところにいなければならないのか、分からない。
 異界で魅せつけられる、魔術王国やリージョン界での法則ルールから大きく外れた術の数々に興味がない訳ではない。
 だけど、この場所にいても、術の資質を己の身に刻むことはできない。
 即ち、その先にある使命を果たせないということ。
(……帰りたい)
 故郷から離れるほど、故郷が恋しくなる。
 周囲からは鉄面皮などと評されていることは知っているし、否定や肯定をするつもりは彼自身にはない。しかし、ブルーも確かに人間だし、22歳の青年である。
(でも、帰れない)
 陽光を照り返す石畳の敷かれた中央広場、その中心にある大きな噴水は時折、小さな虹をえがく。
 その要素だけをつまめば、王国キングダムに似ている箇所がないとは言えなくもない。
 しかし、やはりここは王国キングダムではないことは明白である。人の往来があっても、おごそかで静謐な空気が保たれていた王国とは違い、ここは喧噪けんそうまみれている。そもそも、王国ではこんな世俗的な催しなど行われないし、こんな昼中の時分から、酒類アルコールを口にしている訳でもないだろうに、誰も彼も浮き足だっているような振る舞いをしたりもしない。
(……思い返してみれば、ここの連中はそういうのばかりだ)
 ブルーと同じく、突如として嵐のような理不尽に巻き込まれた。
 元々あるべき場所から引き剥がされて、見知らぬ(というより、光に包まれていて姿を現さなかった)女が塔士なるものを助けてあげて、などとほざく。こんな世迷い言を真に受けて、戦乱に荒れようとしている侯国バンガードや塔士たちの力になろうと先陣を斬るお人好しどもが、今は着飾って円舞曲ワルツに興じている。
 ブルーのように、元の世界に帰る手段が見つかるまでと条件をつけた上で、塔士団に協力をしている者は、少数派のようである。
 そのことは別にどうでもいい。他人がどのような思考を経て、この場所にいるかなど、彼にとっては瑣末なことである。
 ただし。
 親愛の情などは皆無、むしろ、己の存在意義を否定する存在ものとして、憎しみに近い何かを抱いているのかもしれない、魂の色だけが異なる、覗き込んだ水面に映る己の姿のような片割れ。
 決して相容れず、これまで対照的に描かれてきた線が重なることもない。互いの存在そのものを懸けて戦うその時、その刹那の瞬間だけ、二人の道は交差する。
 だけど、理解・・はできるのかもしれない。
 顕在意識の下でのっしりと横たわる彼の無意識は、そう認識していたのだけど。
 何も知り得ず、ぷかぷかと浮かんでいるだけで、街を彩るという役割を果たしている風船に囲まれるように、ルージュは佇んでいる。舞踏会ダンスパーティに相応しい、洒落た衣裳を身にまとい、不適な笑みを携えて。
 その微笑に惹かれてか、あるいは普段から装っている外面そとづらの良さがあってか、おそらく顔見知り程度の仲であろう女たちが代わる代わる声を掛けていく。そのたびに、ルージュは笑顔の角度を少し変えて……いかにも「申し訳ない」とまったく思ってもいないような言葉ことを額やら頬やらに貼り付けて、小さく頷くのだは、特定の相手パートナーがいてもいなくても参加できるらしい。そもそもにして舞踏会は社交の一環だから、曲が変われば相手も変えるのが一般的であるらしい。どうも、相手を変えずにひたすらくるくる回り続けているペアもいくつか見受けられるが、しかし、そのことはブルーにはあまり関係のないことである。
 気に入らない、気に喰わないと思うのは。
「ブルー、いつまでそんなところで突っ立っているんだい?」
 気付いていたのか、気付かない振りをしていたのか。
 どうやら、思考の迷路に入り込んでいたらしい。見えているはずのものが視えなくなるほど、奥深くまで。
 顔を突き合わせていると、まるで、鏡でも見ているかのようだ。
 気付かなかったのは、必然かもしれない。
 気に入らないと思うのは、摂理によく似た嫌悪感なのかもしれない。
 己よりもほんの少し高いテノールの声に気付いて、最初に視えたのは、血よりも深く、夕焼けよりも鮮やかな、あか
 数名の女たち、あるいは女が腕を絡める男たちと、歓談していたルージュ。
 柔らかくて生温かい、微笑みの仮面ペルソナをぴたりと顔に貼り付けたルージュの紅い瞳が、ブルーの青い瞳をとらえていた。
「……何の真似だ?」
「いいや? 僕にはないよ。今日はそこそこ忙しいんだ。
 でも、ブルーはさっきから、僕のことばっかり見ていただろう」
 戯れ言を、と言い掛けて開きかけた唇を、ブルーは自らの意志で縫い止める。
 ルージュの言葉が、事実だからだ。
 虚勢を張って、まことを嘘と偽ることこそ、ブルーの矜持が許さない。
 二の句を継げず、先ほどまでのようにめつけるだけのブルーに向かい、ルージュはひらひらと手を振ってから、さらりとした口調で言ってのけた、明日の天気の話のような気安さで。
「――もしかしてさ、ブルー、僕と踊りたいんじゃないかなって思って」
 ここで彼が魔力を暴発させなかったのは、日頃の修練の賜物だろう。
 全身が強ばってから、身体の内側で走る血潮が逆流するような錯覚に陥る。肌は凍えているかのように粟立っているのに、はらわたはうねり、煮えくり返る。そのように感情が波立とうと、思考は形を失わなかった。――皮肉のひとつでも返してやれるような、余裕はなかったのだけれど。
「…………何を、馬鹿な」
「冗談、じょうだんだよ。それに、僕、今日は先約があるんだ。
 だから、ブルーには付き合えないよ、ごめんね」
 あー、やっと来た、と誰に言うでもなくぼやいてから、ルージュは身体ごとくるりと回る。身体の線にぴたりと沿う、黒いベストを着た背中が、ブルーの目にはやけに広く見えた。
 焦ったように小走りで――結果としてルージュを待たせていたのだから、実際に焦っているのだろう――駆け寄ってくる少女には、見覚えがある。同じ世界リージョン界の出身とのことだが、ブルーにとっては、ここバンガードに来てからの顔見知りだ。ルージュとは既知の仲らしい。冴え冴えとした緑の短い髪が、潮風になびく。
 遅かったね、とか、白薔薇が細かいところまでこだわるから大変だったとか、軽口をぽんぽんと叩きながら、二人は肩を並べ、広場の中心まで歩いていく……ブルーを置き去りにして。
 なんだか、無性に、腹が立った。
 それを言葉や声という形にして漏らすような愚か者ではない。
 だけど、感情そのものを喉の奥に追いやって、すり潰してから飲み干してしまえるほど、成熟もしていなかった。
 ブルーは、踵を返した。
 もうそこにはいないルージュに、背を向けて。
 法衣をまとったブルーの背中を、今日のルージュが見ることはない。
 ブルーは、右手を振り上げる。
 彼自身も自覚していない感情とともに、瞬時に練り上げられた魔力は、木枝や街頭、店の軒先やかのイルカ像にまで括り付けられていた色とりどりの風船だけを次々に破裂させた。
 ぱんぱんぱん、と乾いた音がいくつもいくつも重なっていく。祝祭と舞踏ダンスという甘い響きに酔いしれた人たちも、この衝撃サプライズには我に返り、割れて形を失い、萎びた風船を呆然とした表情でただ見つめていた。
 ゆったも一瞬だけ停まったが、奏者の大多数は機械メカである。状況確認の後、任務続行に支障なしと判断したらしい、何事もなかったかのように演奏が再開された。
 はあ、と漏れ出るため息を留めることもできず、ブルーはのろのろと歩き出した。
 どうして、風船ばかりを壊してしまおうと思ったのか、その衝動の理由を、彼自身、言語化することが出来なかった。
 ただ、胸の奥深く、心臓の裏側にべたりと粘着ねばつき離れなかった何かの幾分かが、やっと剥がれ落ちたことだけは、確かであった。     
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